地球上から生物が生きられなくなるのに生きるのはどうして

太陽はあと何億年で燃え尽きる?
地球はあと何億年で活動を停止しする?
その前に氷河期がきて人間は絶滅するかもしれない。
宇宙だって無くなるかもしれない。
最後はみんな無くなる。無になる。今やってることは最後の最後には全部無駄になる。

なのに何故、生きるのか。何故生き物は必死に生きようとするのか。
死んだら無になる。何も無かったことになる。
子孫を残しても、宇宙がなくなれば最終的には何も残らない。
何もしてこなかったことと同じ。

だったら子孫を残す意味もないし、生きる意味もない。
なんのために生きているのだろう。どうせ最後は無なのに。

そう考えるとどうしてもやる気が出ない。本気になれない。
どうせ何も残らないのに、意味なんてないのに。
今やっていることすべてが究極的には無意味で無目的なのに。

ずっとそう思ってきた。意味なんてない、最後は全部消えてなくなる。

でもそれは違うかもしれない。
最後に消えてなくなるというのはただの思い込みで、自分の知識の範囲内で考えようとしてるだけで、
死後の世界があるかもれない。1億年後に新しい太陽ができるかもしれない。
他の星に移住するかもしれない。
何も無くなるなんて誰が証明したのか。1秒先の未来も予測できないのだ。
意味なんて無いなんて、今はわからないのではないか。

だから、今やってることは無にならないかもしれない。

でも、やっぱり無になるかもしれない。
何か確信が欲しい。生きる意味、生きて良い許可、今やっていることが絶対無駄じゃないよという証拠が欲しい。
それがないと何もやる気が起こらない・・・

「生きる絶対的な目的」とは何か

生きる目的、生きる意味とは何か。
それが知りたくて色々なドラマや映画を見たり、小説やマンガを読む。
しかし、どんな映画を見ても、どんな本を読んでも、
絶対的な意味は教えてくれない。

ドラマやマンガが提示してくれるのは相対的な答えで、例えば、
誰かに出合うため、誰かを守るため、僕は僕でしかない、世界でたった一人の自分、と言ったものだ。
それは映画の数だけ、本の数だけ答えが存在する。

でもそれは全部相対的な答えで絶対的な答えではない。
人間が何故この世に生まれたのか、生まれた理由、生まれた意味、
それが知りたいのだ。

数学の式ではわからないものを求めるときにxという記号を使う。
xはわからないものを求めるために生み出された記号だから、
xそのものには生まれた絶対的な意味がある。xがうらやましい。
自分にも何かこの宇宙にの歴史に関わる大きな役割が与えられていればなぁなどと思うことがある。

しかし、そんな役割なんて無い。何故生きているのかすらわからない人間。

そんなみじめな自分をちょっとでも慰めるために、こう思うようにした。
生きる絶対的な意味は、人類の歴史上まだ誰もその答えを見つけていない。
だから必死に生にしがみついてその答えを見つけ出そうとしているんだ。

やる気が出ないのは心に柱がないからで、気合はそこで消費されている

やる気が出ない、と言うと、
気合いが足りない、と言われる。

間違いだと真っ向から否定はしないが、気合でなんとかできる人は、心に柱ができている人だと思う。

自分の思う「やる気がない」状態は、「生きる意味がわからない」「生きる許可が欲しい」「生きていいよって言われたい」状態で、何かをやる以前に、生きること自体に疑問を感じている。

意味もわからず生きている。それだけで苦痛なのだ。立っているだけで精一杯なのだ。
立っていることにすでに気合を使っているのだ。
だから何かするための気合はもう残っていない。

人によって持っている気合の総量が大きく変わるとは思えない。
最近の若いやつは気合いが無いとか言うやつがいるがそうではなく、
年配だろうが若者だろうが持っている気合の量は同じで、
使い方の配分が違うだけのように思う。

配分の仕方は育った時代や環境に大きく左右されると思う。
例えば団塊の世代と呼ばれる人たちは幼少の頃、何をやっても大成功、いわゆるイケイケドンドンの経済成長で盛り上がる大人や社会を見ているし、バブルを体験し分厚い給料袋をもらい、何もしなくても順調に出世し、車を買い、家を買ってと、成功体験を多く積んでいる。

そのような環境にいれば、心に柱が立ちます。希望や明るい未来が約束され、どんなにつらいことがあっても耐えることができる。
心にしっかり支えがあるから、どんな強風も気合で乗りきれるし、乗り越えたことがまた成功体験として刻まれることになる。

一方、そのあとの世代。就職氷河期〜ゆとりの世代と呼ばれる人たちが幼少の頃に見たものは、
不景気のニュース、不祥事のニュース、
何年も働いた会社をクビにされたサラリーマンの悲痛なドラマ、
安売りのチラシを何枚も持ったお母さんが登場するアニメなどです。
そんな幼少時代を過ごした人間に、将来への希望が持てるだろうか。
希望も未来もない将来を思い、何故生きているのだろうかと思うようになります。
心に柱など立つはずもない。
心に柱がないのだから、じゃあ何で心を支えるか、気合しかない。
そう、気合がないのではない、気合はすでに立っていることに使っている。

だから、つらいことがあっても耐えることができない。何のためにこんなひどい目に合わなければならないんだと思う。

最近の若者は上司に怒られたらすぐ辞めてしまう、というニュースはその辺りが原因だと思う。
何のために嫌な思いをしているのだろう、と思った瞬間に耐えられなくなってしまうのだ。
これを我慢すればいつか俺も・・・なんてとても思えない。そう思うには将来があまりにも不安すぎる。

だから、気合がないわけじゃない。
生きてるだけですごいんだ。

はじめまして

このブログは自分自身がかかえている悩みをやわらげる方法はないものかと模索した記録です。

自分は14,5歳の頃からやる気が出なくなりました。
集中力が出なくなり、気が散ってしょうがなく、
勉強もおろそかになり、何かに手をつけようとするたび、強烈な拒絶感がおそってきます。

拒絶感というのは自分が勝手にそう呼んでいる感覚で、
何かをしようとするたびに、例えようもなくもう一人の自分がそれを拒否しているような状態です。
多重人格という意味ではなく、何故それをやらねばならないのか、やらなくて良い理由はないだろうかと、思考がネガティブな方向に走り、
結果何もせず、さらにそれを後悔します。

今思えば、思春期挫折症候群かもしれないと考えることもありますが、
そう思えば気が楽だからと思い込んでいるだけかもしれません。
以来、15年ほど同じ症状に苦しんでいます。
やる気が出ないどころではなく、
何をするにも本気になれない、
目の前のタスクに手を伸ばそうとするも、
強烈な拒絶感、拒否反応におそわれ何もできない毎日。

しかし、15年の模索の中、最近になってようやく徐々に前向きに考えることができるようになってきました。
今まで、ふさぎ込んで悩んで苦しんでいるときに、思い浮かんだことを次々とノートに書き殴っていましたが、
色々なサイトやブログを眺めていると、似たような苦しみを味わっている人がたくさんいるのだと知りました。
なんの解決にもならないけども同じ境遇にいる人がいる、たったそれだけのことを知るだけでもいくらか気が楽になりました。

そこで自分もブログを通じて悩みを公開してみようと思いました。
同じ苦しみを味わっている人と共有できれば幸いです。