人間は他人の悪意に敏感で、なんとなくむかついたりするのはそのため

誰にでも、何気ない他人の一言でイライラしたりむかつくことがあります。
ときには、なぜそのような負の感情が沸き起こるのか自分でも理解できないこともあります。

それは頭では理解していなくても、もっと根底にある深層心理や本能といった部分で
敏感に相手から発せられた悪意を感じ取っているからではないでしょうか。
正確には悪意を感じ取るのではなく、自尊心を傷つけられたと感じている。

例えば、
家族から出かける間際に言われる「事故を起こさないように気をつけて~」
という言葉。いらっとする方もいらっしゃるのでは?

なぜでしょう。
この場合、車の運転をするのは自分、事故を起こすかもしれない人物も自分、
そして車の中は安全にできているので仮に事故を起こしたときに死ぬかもしれないのは自分ではなく他人。

つまり、自分の心配をしてくれているのではなく、他人を死なせてしまう心配をしているのです。
もっと言うとその先の賠償金や世間体などを気にしている。
家族は、私の心配ではなく結局本人の心配をしているのです。

もし私の心配をしてくれているのなら、「事故を起こさないように」なんて言い方はしないはずです。事故にあわないように、とか単に気をつけて、でいいじゃないですか。
あえて失礼な言い方をしなくていいわけです。

ムッする瞬間にそこまで考えているわけではありません。
聞いた瞬間に本能が悪意を感じ取り、
私のことを心配しているフリをして私のことを信用していない、
と自尊心が傷つけられ負の感情が浮かんでくるのではないでしょうか。

イライラする自分にイライラする必要もまったくありません。
イライラしたらそのイライラを信じ、何故イライラするのかを冷静に考えて自分を観察してみると新しい発見があるかもしれません。

働かない子、みじめな親

自分の子供と同じ年の子が結婚したり、出世したり、子供を生んだり、テレビで活躍している。
かたや自分の子供は働きもせず毎日引きこもってインターネットをしている。
近所の人はどう思っているのだろう。
そんな風に思っている人へ

子供の所為にしていませんか?
近所の人の目が気になるのというのは、本当に子供の心配と言えますか?
自分自身が近所の人にどう思われているのか気にしていませんか?
いつまでも働かない子を家で飼っているダメ親だと思われているんじゃないだろうか、
なんて考えていませんか?
自分がみじめに思えてなりませんか?

例えば、
銀行にお金を預ければ利息がもらえる
銀行からお金を借りれば利子を払う。

例えば、
人を呪わば穴二つ。
人を呪おうと思ったら、自分の分の墓も用意しておけという有難い言葉。

では、
愛情をそそがれて育った子供はどうなるでしょう?
将来大活躍。幸せが帰って来るでしょう。

では、
子供を殴ったり、ぶったり、理不尽な要求(言うこと聞かないとメシ抜きだ!)をしたりして、人格を否定された経験を持つ子供はどうなるでしょう?

愛された経験の無い子供は自分に自信が持てなくて、卑屈になったり、目立たないように目立たないように行動します。
当然幸せになれません。そして社会でも役に立てません。

子供を殴ると言うことは、呪うということと同じ意味です。
つまり、働かずに引きこもり、近所の人から影でささやかれ、
みじめな思いをしているならば、それはつけを払わされているに過ぎません。

その責任を働かない子供に押し付けようなんておこがましいにもほどがあります。
本気で子供の幸せを願うなら、まずは子供に土下座して謝りなさい。
殴ってすいませんでしたと、本気で謝れ。

それができないのなら、まだ自分自身の方がカワイイと思っているってことですよ。

やる気が出ないのは短期的な結果を求めているから

やる気がでない、目の前にある楽しいことをしてしまう。好きなことにしか集中できない。
本能のままに行動してしまう。

本能は人間が社会生活を営んでいることを考慮しません。
そのため短期的、短絡的で計画性がまるでなく、たとえ計画をたてても即挫折し、
今が楽しければそれで良いという発想にすり替わってしまいます。
そして後に残った後悔と言う残念な結果だけは理性に持たせ、本能はまた楽を求め始めます。

理性は長期的にものを考えることができるし、社会で生きていく上での計画をたてることもできる。
将来の不安材料もわかっているので、将来報われるのなら今苦労しても良いと考えることができます。

しかし、本能は強い。
本能は理性をやりこめる方法を本能的に知っています。
「どうせ報われないんだからやっても意味無いんだよ」と理性に語りかけるだけでいい。

本能は結果主義なので、結果が良ければすべて良い。
死ななかった、という結果があればなんでも良いのです。だから楽しいことだけ、楽なことだけやっていれば良いと理性に語りかけます。
苦労して報われる前に死んでしまうことを、本能は怖れているのかもしれません。

理性は何主義だろう。理性は過程を大事にするのではないでしょうか。
例えば、大きな買い物をするために一生懸命働いたとき、目的物よりも頑張ったことが大事。
資格取得における勉強。資格ではなく、その過程である勉強が大事。
できあがった絵ではなく、描く過程が大事。
結果に向かう過程が大事。

だから報われなくてもやる。報われるというのは、結果として現れるという意味なので、
結果が現れなくても、つまり報われなくてもその過程を経験したことの方が大事なのではないでしょうか。
だから本能から見れば報われなくても、理性的には着手した時点で既に報われているのです。
やっても意味ないなんて思わないことが本能に克方法なのではないでしょうか。

結果がどうなるかなんてわからないし、どうでもいい。
どんなささいなことでも良い、何をしたか、が大事。
どうせ報われないなんて思わなくていい、もう報われているのだから。
因果応報とはそういうことだと思います。

尊厳死と自殺の違い

自殺してはいけないよ、と言うのは正確ではないと思います。

自殺とは死にたい人が死ぬわけではなく、何かに追い詰められその結果として死を選ぶことです。
だから、自殺を「させては」いけないよ、というのが正確な注意ではないでしょうか。
これは死を選ぼうとしている人に言う言葉ではありません。
誰かを不当に追い詰めている人間に言う言葉です。

前々から思っているのですが、自殺は卑劣な殺人なのではないでしょうか。
例えばAがBを銃で撃ち殺した場合、Aは殺人犯、Bは被害者、銃は凶器です。
しかし、AがBを自殺に追い込んだ場合、Bは自殺、で終了です。
おかしい。

この場合、Aは殺人犯、Bは被害者で、凶器はBではないでしょうか。
Aは自分の手を汚さずにBを殺した。
凶器は他ならぬB本人。あまりにも卑劣です。
自殺者が3万人を超えたということは、少なくとも3万人の殺人犯が野放しにされているということです。
自殺する人を減らそうなんて、考え方がそもそもが間違っていて、
自殺へと追い込む状況を作らないようにすること、それが急務だと思います。

自殺に対し、尊厳死という言葉があります。
尊厳死は、病気等で近い将来に死が待っており、その病状等の苦痛から逃れるために死を選ぶことです。
尊厳死は認めるべきだと考えています。
病気の激痛に苦しみ、薬の副作用に苦しみ、歩くことはおろか本を読むこともできず、
しかしそれらの苦痛を耐えたとして、待つのは死です。
耐え抜くことでまた元気になれるのならば人は苦しみと闘うことができます。
耐え抜いた=死、を意味する状態にあるのであれば、では何のために苦しみと闘うのでしょうか。
もし私が不治の病にかかりその様な状態になったとしたら耐えられません。
看病する家族にも迷惑をかけるでしょう。友人も心配するでしょう。憐れむかもしれません。
そんなときは潔く死を選びたいです。
尊いのは命だけではないのですから。

道具の所為にするな

最近、なんでもかんでも道具の所為にしている気がする。

例えば原発反対、脱原発。
例えば殺人事件が起きたとして、その凶器が包丁だったとしても、
包丁をこの世から無くそう、とはならない。
包丁はときに人を殺すこともできるし、おいしい料理をつくることができる。
要は使いようなのだ。

凶器に包丁が使われたのなら、包丁を使った人を罰すればいい。
原発が凶器として使われたのなら、使い方を誤った人間を罰すればいい。
原発をなくしても犯人はそのまま野放し状態である。

野放しにされた殺人犯は別の道具で人を殺めるかもしれません。
原発をなくした犯人は、別の道具で同じ過ちを犯すんじゃないでしょうか。
こんなニュースもありましたし。
川崎の発電所でガス漏れ 東京電力、けが人なし(Infoseek楽天ニュース)
原発の運営失敗者にしっかり責任をとって欲しいものです。

それから、
交通事故が多いからって車の安全性をあげるだけではダメです。
それでは事故を起こしたときに車の所為にしてしまいます。
車の開発者の血の努力は有難く享受させていただくと同時に、
事故を起こしたときは車の所為にせずしっかり責任を取るのは当たり前ですよね。

あと、インターネット、携帯電話、パソコン、銃。便利なものは必ず悪い方向にも便利なんです。
何か問題が起きたとき、そういった便利な道具たちが責任を負わされるのは腹が立ちますね。

普通で良いんだよなんて言わないで

普通でいいんだよ。
の、普通とはいったい・・・

人間は「普通」の状態から離れると、嫌われ、疎まれ、妬まれます。
人間は集団を形成して生きる社会性の生き物だから集団行動からはずれるような行動をとる人を本能的に嫌うのかもしれません。

集団がバラバラになるということは、集団の死を意味し、
社会性を失った人間は一人一人では生きていくにはあまりにも弱いため生きていけません、
つまり集団の死は個人の死をも意味します。
生き物として死を避けることは本能なので、つまり人間は本能的に集団を守ろうとするのではないでしょうか。

集団が集団として持っている性格、それこそが「普通」と呼ばれるものではないでしょうか。
100人の集団がいて、99人が裸だったら、それが普通。
1人だ服を着ていれば目立ってしまう。
集団の中で目立つということは、集団の中で特殊な存在であるということ。
集団は特殊な存在を排除しようとする。

特殊な状態が広がり、51人が服を着れば今度はそっちが「普通」になってしまう。
50人対50人に分かれたらどうだろう。集団は2つに分かれてしまう。
普通を奪われること、集団が分かれてしまうこと、集団が分かれることは死の可能性を意味し、死がが怖いのでそれが起きる前にその芽をつぶそうとする。だから特殊な存在を排除しようとする。

逆に、集団に属している人間個人はそういった集団の排除機能を知っている。
そのため「普通」に対して疑問を抱いたところで、それを言わない、実行しない。
排除されるのが恐いからだ。
裸はおかしいなんて言えない、言えば追い出されてしまうから。

しかし、良く考えてみましょう。
同じことを考えている人間がいるのではないでしょうか。
追い出されたところで、死ぬわけではない。他の集団に合流すればいいのです。

自分の言いたいことを言おう、必ず同じ意見の人がいるから。
だから、普通でなくてもいいのだ。

※裸でいよう、と言いたいわけではありません。服は着ましょう。
言いたいことを言おう、と言いたかったのですが良い例が思い浮かばなかったので。

道でまったく避けない人間

道を歩いていると、他人とすれ違う。
たいていはお互いが自分の歩いているコースを少しだけ右か左にずれて譲り合う。
まさに日本人のお互い様の精神。

しかし最近、避けない人が多い。コースを一歩も譲らず、すれ違う相手に当然のように道を譲らせる。
しかもこっちを一切見ないやつもいる。
譲ってもらってありがとうはあるわけないし、譲ってもらった認識も、多分無視をしているという認識もない。
まるでそこに人なんていない、完全な無関心。
どうしてそこまで平気でいられるのだろう。殴ろう刺そうと思えば簡単にできるのに。
多分普段から何も考えていないんだろうな。誰にも注意されずに育ってきたのだろう。
自分が楽しいかどうかしか考えられない子供なんだと思う。どこかで死ぬほどつらい目にあえばいいさ。

もう一つ道を譲らない人間。こっちに気づいているけどあえて避けないタイプ。歩き方や態度や顔で威圧して避けさせる。
そういうタイプは結局、自分に自信がないのだろう。
相手に道をあけさせることによって、自分の方が強いと確認する。
相手より自分が上だと思うことで自分の価値を認識している。
つまり、人に迷惑をかけることで、相手に自分を認識させ、結果自分はここに存在しているという認識を得ている。
逆に道を人に譲るということを、負けと思っているのだと思う。
そんなかわいそうな人には素直に道を譲ってあげよう。そして心の中で笑ってやろう。

あーイライラする。最近日本人と呼べる人がめっきり少なくなった。悲しい限りだ。

幼少時代に親や近所、友達から十分な愛情を得ることができなかったのかもしれない。
人間は相手を認めることができる生き物だから、たとえ他人だろうとお互いを認め合うことによって自分の存在を確かめることができるはずだ。

生きることは「権利」なのか、生きなければならない「義務」なのか

「生きる」ことは「権利」か、それとも「義務」か。

もし権利だとすれば、放棄することも自由。
もし義務だとしたら、死ぬまで続けなければならない。

生きる権利。
この世に生を受けたこと自体、それだけで尊い財産であり、誰であろうと他人の財産を奪うことを許さない。
奪うことは許されないけど、売ることも捨てることもできる。

生きなければならない義務。
この世に生まれてしまった以上、どんなに理不尽でもその役割をまっとうせねばならず、
寿命が尽きるまで生きなければならない。途中で放棄することは許されない。

どう考えれば生きるのが楽になるか。死ぬ理由が見つかるか。

権利か、義務か、どちらの考えを受け入れたときより気持ちが楽になるか。
どちらが正しいか。実はどちらでもない。
何故なら、本心はそんなことどうでも良く、結局生きるのがつらいから、つらさを少しでもやわらげるような、自分をホッとされられるような考えにすがろうとしているだけなのだから。
欲しいのは生きるための言い訳で、生きるのが楽になる方法で、とにかく苦しみから救われることが大事であって、権利か義務なんて本当はどっちでもいい。

そもそも権利だの義務だのは、人間が文明を持った後から考え出した概念に過ぎず、
権利や義務という概念が存在する前から人間は生まれて生きてそして死んできた。
今さら権利だから生きるとか、義務だから生きなければならないという風に思っても、何の解決にもならない。

後付けの概念で「生きる」理由を探してもダメ。
深く考えず「生まれたからとりあえず生きる」程度で良いのだと思う。
本当に欲しいものは「生きて良いよ」っていう許可だから、
「生きる」ための言い訳を探しても、ずっとつらいだけです。