行動にうつしさえしなければ何をしても良い!

行動にうつさなければ、というのはイコール何もするなという意味なので、
何もしなければ何をしても良い、という意味のタイトルになり、一見矛盾します。

そうではなく、
頭の中で考えるだけで行動にうつしさえしなければ、何を考えても良い、と言いたかったのです。

例えば、
頭の中で不謹慎なこと、ふしだらなことを考えてしまい、
そんなことを考えてしまった自分に自己嫌悪する、
ということがよくあると思います。

自分で考えたことで自己嫌悪してストレスを溜めこんで、自分がどんどん嫌いなっていく。
とても効率が悪いと思いませんか。

さらに良くないことに、
残酷なことや淫乱な思考を始めようとした脳、もう一人の自分がを押さえつけようともします。
そんなことは考えてはいけないぞ!と。

自分で自分を抑えこむわけです。自分を抑圧しているのです。
こちらもものすごく効率が悪いと思いませんか?

人間は意識か無意識かかかわらず、生き残るために常にあらゆる可能性を模索しているので、
自分の意思とは関係ない想像が沸き起こったりするのは当たり前なのです。
どんな人間でも残虐に人を殺す想像や異性を始め他人の裸を想像するものです。

ただ、それを行動にうつさない、言葉にしないという選択ができるからこそ人として成り立つのではないでしょうか。

人は相手の考えていることが目で見えるわけではありません。
だから、自分が考えていることを表現さえしなければ誰にも知られることはないのです。
自分のコントロールできない部分で勝手に想像したことなど、ほっておけば良いのです。

自分はこんな残酷な人間じゃない、こんな淫乱な人間じゃない、と思う必要はないのです。
想像したことを行動にうつさない、言葉にしない、そのフィルターがあなたという人間、個性なのです。

頭に浮かぶことはあなたの意思とは関係がないから、残酷な想像をしても、淫らな想像をしても、
だからあなたは残酷な人間、だからあなたは卑猥な人間、とは決してならないのです。

行動や表現をしたとき初めて、残虐な人間、すけべな人間というレッテルが貼られるのです。
だから行動にうつしさせしなければあなたは純粋で真面目な人間なのです。

むしろ頭の中では常に何でも思い浮かばせていた方が、
抑圧するストレスからも解放され、自己嫌悪に陥ることもなく、
無駄なエネルギーと時間を消費せずに済んで健康的だと思います。

背中とは自分の見えない部分の比喩であり、両親の行動を観察することで自分の見えない部分を発見する

子は親の背中を見て育つ

と言いますが、この背中というのは何なんでしょうか?
多くの人は「生き様」という意味で捉えているのではないでしょうか。
私はそれだけではないと思います。

あなたはご自分の背中が見えますか?

見えませんよね?特に鏡無しでは絶対見えません。
では、「背中」を「絶対見えない部分」に置き換えてみましょう。

子は、親が自身では絶対に見えない部分、を見て育つ。

どうでしょう?そう考えると深い言葉だとは思いませんか?
そして、こんな言葉もあります。

子は親を映す鏡である。

背中は鏡がないと見えない、という方向から考えてみると、
この言葉は単に子が親に似るという意味だけではないようにみえてきませんか?
同じように言葉を置き換えるとこうなります。

子は、親が自身では絶対に見えない部分、を映す鏡である。

なんだかすごく深い言葉に見えてきます。

さらにこれを逆方向から見てみましょう。
子供側から見るのです。

自分は親の見えない部分をを映し取った人間である。と考えることができます。

自分で言っておきながらすごく嫌だなぁと思う発想なのですが、自分を知るためには両親を観察する。
そうすると今まで見えていなかった部分が見えてくるかもしれません。
両親と向き合うことはあるいは自分自身と向き合うより気分の悪いことかもしれませんね。
自分探しは険しい。

生きる目的はスケールが大きすぎてわからないのかもしれない

以前、
生きることに見返りを求めてはいけない、生きる目的は後付けだから。
といった内容のことを書きました。
http://ameblo.jp/gloryshit/entry-11464676775.html

生きる意味なんていらない、というのがそのときの気持ちだったのですが、
色々考えている内に別の考えが浮かびました。

生きる目的と宇宙が誕生した目的は同じなのではないかと、思ったのです。

ちょっと宗教っぽいかもしれませんが、何かの宗教本を読んだとかそういうわけではなく、
ただ単純に、何の目的もなく誕生したのではむなしすぎる、という着想点から考えました。

宇宙が誕生したことに何か意味があるなら、
その過程で生まれた星や生命が生まれたのは、宇宙が誕生した目的に沿って生まれたはず。
それは人間にだってあてはまります。
つまり、自分は宇宙が生まれた目的に沿って、宇宙作りの何かの役割を背負って生み出されたと考えたわけです。

そして、何の目的もなく宇宙が生まれたのなら、すべてのものは無目的、ということになります。
それではあまりにもむなしすぎるということで、宇宙が生まれた理由があるのではないかと考えました。

宇宙が何故生まれたのかなんて考えたことありますか?
考えてみてもスケールだ大きすぎてわかりませんよね。

自分に置き換えても同じことが言えます。
つまり、何故生きているのだろう?何故生まれてきたのだろう?生きる目的はなんだろう?
と思い悩むことは、
宇宙が生まれた理由を探るのと同じスケールの大きさの悩みをかかえているということです。

自分が生まれた理由、それはスケールが大きすぎてわからない、
だから悩んでもしかたがない、それが今回の結論です。

行動を起こすには目的が必要なんて言われるけど、そんなに簡単には見つかったら誰も苦しまない

やる気を出すために自己啓発本を読むという方法があります。
自己啓発本は共通して同じことが書かれています。
「行動しろ」

その行動を起こさせるために、本によって異なる様々な言葉で背中を押してくれるわけです。
人にはそれぞれ効く言葉と効かない言葉があります。

しかしどの言葉も効かない人もいます。
心に響きはするけど行動に移るには至らない。
なぜでしょう。
気合いが足りないからと一笑に付すのならこの先の文章は読まなくて結構です。

自己啓発本の言葉はたとえるならガソリンです。
ガソリンを燃やすには車が必要です。
車を運転するには目的地が必要です。

そう、行動を起こすためには目的が必要なんだそうです。
目的地があって初めてそこに向かって移動する。

目的地がわかっていてやる気がでないのと、
目的地もわからずにやる気が出ないのではとても大きな差があります。

前者の場合は自己啓発本を読むと良いでしょう、すぐにガソリン満タン、行動に移せます。
後者の場合は読んでも無駄です。
目的地もわからないのにガソリンを入れても意味がないからです。

自己啓発本を読んでもやる気が出ないのなら、まずは目的地を見つけること。
目的なら持っていると言う人は、今の目的地が本当に自分の目的地なのかもう一度考えるべきです。
将来のなりたい自分、就きたい仕事、楽しい趣味、生きがい。
そういった目的地を見つけると、ガソリンの使いどころも見えてくるはずです。

しかし、そんな簡単に目的が見つかれば誰もが死ぬほどに苦しむことはないんです。
目的がそんな簡単に見つかったりはしないのです。だから焦るし苦しいしもどかしいのです。
ではどうすれば良いでしょうか。

よく考えてみましょう。車には本当に目的地は必要ですか?
あてもなくドライブすることだってあるはずです。
それだけで楽しいと思うことだってあるでしょう。
つまり、ただ目的もなくぶらぶらと生きても良いということです。
人生何が起こるかわかりません。急に目的ができるかもしれないのです。

まずは気軽にぶらぶら生きてみましょう。
ガソリンがなくなったら本でも読んで補充しましょう。
あせらずのんびり生きてみましょう。

何故多くの人はそんなに簡単に生きていけるのか

どうせ死ぬのだから、どうせ地球は無くなるのだから、
太陽は燃え尽きるのだから、すべて無に帰すのだから、
生きる意味なんてない。

最終的にすべて無になるのだからやること成すことすべてが無になるのだから、
何のために生きているのだろう。

何をしても無意味なのではないのか。

毎日そう思いながらも生きていますが、本当につらいです。
何をするにもやる気が起きないのです。

世の中の人はこのつらさを乗り越えて勉強したり仕事をしているのだと思うと、
本当にすごいなと尊敬していますが、
反面、本当に誰もがそれを乗り越えて生きているようには到底見えませんでした。
そこまで考えてないんだろうなと見下すこともありました。

しかし、色々な本を読んでいて、
世の中の人が反対のことを考えているということに気付きました。
どうせ死ぬから無意味とはまったく逆の、

死があるからこそ尊く、また死があるからこそ生きるに値する

という考え方です。

自分と同様のつらさを乗り越えているわけではないという発見でした。
私と同じ考えを持って苦しんでいる人には驚きだと思います。
同じつらさを体験していないから勉強できるのか、仕事ができるのか、
努力ができるのか、やる気があるのか、楽しそうに生きていけるのかと。
そして内心では、私もそうですが、そんなの幻想だと思っているでしょう。

しかし、頭から否定するにはもったいない。
苦しみから逃れられるのなら様々な可能性を考えたい。

この死があるからこそ尊いという考え方から何かヒントはないでしょうか。
何か生きる意味を見つけられないものでしょうか。

そして悩んだ末、ある考えが浮かびました。
最終的には無に帰すのなら、すべてが無なら、
最初から何も生まれないのではないか、と思いました。

なんの目的もなく宇宙が生まれ、太陽が生まれ、地球が生まれ、生命が生まれ、自分が生まれたのでしょうか。
すべてが無意味なら最初から何も生まれないのではないでしょうか。

心の奥ではそれをわかっていたから、頭で無意味だと考えていても、
自殺もせずになんだかんだ生きてきたのではないでしょうか。

ならば自分が生まれた理由はあるのかもしれない。
宇宙が生まれたのと同じ理由で自分は生まれたのかもしれない。
まだ答えは見つかっていませんが、
もう少し考えてみる価値はあるだろうと思いました。

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心のサイドブレーキをはずさないと、うまく運転できない

何をするにもやる気が起きず、いざやってみるとうまく行かない。
結果を急いで失敗したり、泥沼にはまってどうしようもない状態に陥ったり。

誰にでもある経験だと思います。
せっかく重い腰をあげたのにうまくいかないので、
結局自分は何をやってもダメなんだと思ってしまいます。

本当に自分はダメ人間なのか、何をやってもダメになる秘訣というのがあるのではないか、
そう考えている内、心の操縦と車の運転が似ているような気がしました。

車を発進させるには、まずエンジンをかけ、サイドブレーキをはずし、
ブレーキをはなしてアクセルを踏みます。

エンジンと心臓がイコールだとすると、人間はもうエンジンがかかっている状態です。
やる気を出すという意味でエンジンをかけるという言葉を使ったりしますが、
今はそういう意味では用いず、生きているイコールエンジンがかかっている、ということにします。

次はサイドブレーキをはずします。
テレビなどでドジな話の定番として、サイドブレーキを入れたまま運転しちゃった、
なんて話がありますよね。

サイドブレーキをおろしたままアクセルを踏めば、いつもより多くのガソリンを使っていつもより遅く進み、進める距離も短い。
サイドブレーキが壊れれば、走っている途中なら急にスピードが上がったり、
駐車をすればそこに止まり続けることができずに傾斜を下りだしたり。
とにかく良いことなんて一つもありません。それどころか、まわりを巻き込んだ大きな事故を起こすことだってありえるのです。

さて、人間に例えてみましょう。
もしも心にサイドブレーキがあり、それを解除せずに行動したとします。
すると、いつもより多くのエネルギーを使い、なかなか思い通りにことが運べず、
なかなか長続きせず、すぐにクタクタになってしまいます。

ふとした瞬間に心のサイドブレーキが壊れ、行動に歯止めが利かなくなったり、
止まるべきところで止まっていられなくなる。
こじつけのような文章で恐縮ですがどうでしょう?車に似ているとは思いませんか?

さて、心のサイドブレーキとはなんでしょう。
それは精神的に負荷がかかるようなものです。
例えば、両親の許可、先生の許可、上司の許可、などはイメージしやすいと思います。

両親の許可なく結婚、先生の許可なく外出、上司の許可無く契約、などなど想像するだけで脂汗が出ます。

私と同じように何をやってもうまくいかないと悩んでいる人、最近流行の言うことを聞かない部下、そんな人たちは実は、
普段の何気ない行動にも、誰かの許可が欲しいと思っているのではないかと考えました。

例えば欲しいマンガがあります。普通の大人なら何も考えずに買います。
今月の予算を考えたりはしますが、誰かに買って良いかなんて聞きません。

しかし、サイドブレーキのおりている人は、誰かに「そのマンガ買って良いよ」と言われたいのです。誰かに許可を取りたいのです。
これは、問題が起きたときに許可をくれた人に責任を押し付ける行為に似ていますが、
恐らくそこまでは考えていません。ただただ純粋に許可が欲しいのだと思います。

しかし、まさかそんなことでいちいち許可を取ることもできませんし、自らの意思で買うことになるのですが、サイドブレーキがおりたまま買うことになるので、何故か罪悪感がつきまといます。誰にも許可無く買ってしまったという罪悪感です。

この小さな罪悪感を積み重ねると、いざというときにガソリン切れを起こしたり、止まれなくなったり、急にスピードが出たりしてケガをします。
これが何をやってもダメな秘訣なのではないでしょうか。

心のサイドブレーキは自分で解除すれば良いのです。自分に聞いて、自分で許可を出してあげましょう。この本買っていい?いいよ。と、子供じみてはいますが、そのような自問自答をするだけで、自分の行動が大分軽くなると思います。
行動するときはサイドブレーキをはずし、休むべきときにしっかりサイドブレーキをかけ、
心も車も安全に運転しましょう。

過去の行動を思い出して急に死にたいと思ったときの対処法

普段何かをしていてもしていなくても、急に昔にあった嫌なこと、ささいなことを思い出して、
特に自分がされたことではなく、自分がした行動を思い出して、
死にたいと思うことがよくあります。

誰にでもあることなのかもしれません。

それは潔癖な性格が汚い過去に耐えられないからだと思います。

一番良い対処法は過去を変えることなのだと思いますが、
残念なことに現在の科学ではそれはかないそうもありません。

二番目に良い対処法は忘れることなのですが、
嫌なこと程忘れられないものです。むしろ時が経てば経つほど悪い方向に美化されていき、
余計に苦しさを増すものなのではないでしょうか。

過去を変えるもダメ、忘れるもダメ、なら残る方法は「過去を受け入れる」しかないわけですが、
それが簡単にいけば苦労はしません。
では、どうやって受け止めれば良いのでしょう。

そもそも、何故過去を思い出して死にたくなるのでしょう。
思い出しただけで死にたいと感じるわけではありません。
嫌なことを思い出し、再体験し、恥ずかしいと感じ、そんな自分を誰にも知られたくない、
誰かに知られるくらいなら死んだ方がまし、だから死にたいと思うのです。

なので、この流れの中のどれか一つをブロックすれば、
死にたいという発想に至らないのではないかと考えています。

思い出すことを止められたら誰も苦労しません。
その後の恥ずかしいと感じるところで止めるか、
誰にも知られたくないと思うところで止めるかです。

では1つ目。
恥ずかしいと感じないようにすること。

過去の自分が恥ずかしいと感じたら、そこで意識して思考を一旦停め、
本当に恥ずかしいことだろうか、他にも恥ずかしいことしてるはずだし、
今なら笑い話にできるかどうか考えてみましょう。
人に話して笑い飛ばしているところを想像しましょう。
なんてことはないように感じることができるでしょう。

もしそれでもダメなら2つ目、誰にも知られたくないと思うところで止める作戦です。
ぶっちゃけ、人に知られても大丈夫でしょ、と発想を変えましょう。
潔癖な性格が自分の歴史に汚点があることを嫌がっているだけなので、
別に知られたところで笑い話にしかならないと知りましょう。

歴史上の有名人にだって忘れたい過去の一つ二つあるはずです。
でもそれを明らかにされたところで、笑い話にしかなりません。

世の中はあなたにそれほど興味がないのだ、と思うのも良いかもしれませんね。
変に自意識過剰になることはないのですから。

それよりも、過去の自分ばかり見ていないで、もっと将来のことに目を向けるべきなんでしょうね。
失敗を生かし、次は同じ失敗をしないように行動することを心がければ、
新たに嫌な思い出を生産することも減るでしょう。

暴力は悪ではない、使う人間一人一人を見るべきだ

最近、体罰の可否で揺れてますね。
一昔前も相撲でしごきだのかわいがりだので話題になりましたね。
そのたびに暴力はいけない、暴力=悪だといった流れになります。

原発=悪、であるのと似ていますね。原発の所為、暴力の所為にするのは単なる責任逃れです。
なにかの所為にして本質をはぐらかしたり、はぐらかされているだけです。

暴力がいけないわけではないのです。
暴力は絶対に反対、と言ったところで、この国には死刑制度があります。
罪を犯したものに死を与える。これは一種の暴力ですよね。
つまり、法律により認められた暴力もあるということです。
正当防衛も緊急避難も、自分や誰かの命を守るための暴力なら認められています。

例えば、10人の生徒がいて1人の生徒がナイフを持って暴れていて、
先生は殴って止めました。
これは先生が生徒を殴ったことになりますが、体罰にはなりませんよね。

では、どんな暴力がいけないのでしょうか。
それは相手を傷つけるだけの暴力です。誰も守らない、誰のためにもならない、ただ相手を傷つけるだけの暴力。
指導と称して暴力をふるうというのは建前で、暴力をふるう理由に指導と言ってるだけです。

暴力は引き継がれるのです。
指導者と教え子では立場が違うので、教え子は指導者を殴ることはできません。
そのため殴れた恨みだけが残り、やがて教え子が指導者という立場にたったとき、
今までの憂さ晴らしをするように暴力をふるうのです。

本来、指導者と教え子の立場に上下関係はなく、ただ役割が違うだけなのですから、
指導者だからと言って教え子を支配して良い道理にはなりません。
ただ、何度言っても言うことを聞かない生徒というのはいます。

しかし、それこそが指導者としての腕の見せ所なのではないでしょうか。
言うことを聞かないからと言って暴力に頼るのではなく、
何度も正面から向き合って、何度も話し合い、お互いに理解し合う事、
それこそが心ある人間としての行動なのではないでしょうか。

言うことを聞かないから暴力でわからせるなんて、動物の調教と同じじゃないですか。

「私は体罰によって成長しました」なんて、

「私の指導者は私を動物として育ててくれました」
「私の指導者はたいした人間ではありません」
「私は指導者として人間性を欠いた人間です」

と自ら吐露するようなものです。

暴力で育つ人間なんていません。暴力は誰かを守るためだけに使われるべきなのです。

生きる目的とは結果主義がもたらした副産物

自分は何のために生きているのか?誰もが考えたことがあると思います。
私はそれが見つからず、ずっと苦しんできました。
「苦しんできた」と過去形なのは、「今は見つかった」という意味ではありません。
考え方を変えることにしました。

今までは、
いつかは自分は死に、太陽は燃え尽き、地球は滅び、宇宙だって無くなるかもしれない。
究極的にはすべて無くなるのに、何故生きているのだろう。何のために生きているのだろう。
結局はすべて無意味なのではないか。

と、考えてきました。
しかし最近ひらめいて、発想を変えることにしました。

それは、
そもそも生きることに意味を求めてはいけないんじゃないか。ということです。
生きる目的ではなく、生きている過程そのものが大事なのではないでしょうか。

そもそも、目的を持つということは、何かを目指して行動するための準備です。
なりたい自分を描き、それに向かって努力するために、目標を設定します。
結果ありきで、目標が生まれるのです。

それは、資本主義の競争社会の中で生まれた結果主義が大きく関係しているのではないでしょうか。
競争に勝つために大切なのは実績、結果がすべて、過程なんて二の次。
それが悪いと言っているわけではありません。ビジネス上はそれでも良いと思います。
挙げたい実績、出したい結果があり、それに向けた目標が設定され、それに伴い様々な仕事が発生します。
つまり目的ありきで、行動が後から発生します。

では、生きることはどうでしょうか?目的ありきで生きているのでしょうか?
いいえ、目的なんていう言葉すら知らない状態で生まれてきます。
生きる目的があって生まれてくるわけではないのです。

しかし、その結果主義が日常生活まで根をおろし始めると、
普段の生活でさえ何か目的がないと何も行動できなくなってしまいます。
将来のために勉強する。未来のために努力する。
そしてなりたい自分が描けないとき、何のために生まれてきたのかつい考えてしまうのです。
繰り返しですが、何か目的があって生まれてきたわけではないのです。

生きる目的とは、結果主義が招いた固定概念に過ぎないのです。
目的なんて気にしない、どんな結果が出ようとも、その結果へと続く過程が大事。
生きる目的なんかいらない。
生きていること、生きていくこと、死ぬまでの過程、宇宙がなくなるまでの過程たる今この一瞬一瞬が最も重要なものなのではないでしょうか。

「生きること」に見返りを求めてはいけないのではないでしょうか。