やる気が出ない、と言うと、
気合いが足りない、と言われる。
間違いだと真っ向から否定はしないが、気合でなんとかできる人は、心に柱ができている人だと思う。
自分の思う「やる気がない」状態は、「生きる意味がわからない」「生きる許可が欲しい」「生きていいよって言われたい」状態で、何かをやる以前に、生きること自体に疑問を感じている。
意味もわからず生きている。それだけで苦痛なのだ。立っているだけで精一杯なのだ。
立っていることにすでに気合を使っているのだ。
だから何かするための気合はもう残っていない。
人によって持っている気合の総量が大きく変わるとは思えない。
最近の若いやつは気合いが無いとか言うやつがいるがそうではなく、
年配だろうが若者だろうが持っている気合の量は同じで、
使い方の配分が違うだけのように思う。
配分の仕方は育った時代や環境に大きく左右されると思う。
例えば団塊の世代と呼ばれる人たちは幼少の頃、何をやっても大成功、いわゆるイケイケドンドンの経済成長で盛り上がる大人や社会を見ているし、バブルを体験し分厚い給料袋をもらい、何もしなくても順調に出世し、車を買い、家を買ってと、成功体験を多く積んでいる。
そのような環境にいれば、心に柱が立ちます。希望や明るい未来が約束され、どんなにつらいことがあっても耐えることができる。
心にしっかり支えがあるから、どんな強風も気合で乗りきれるし、乗り越えたことがまた成功体験として刻まれることになる。
一方、そのあとの世代。就職氷河期〜ゆとりの世代と呼ばれる人たちが幼少の頃に見たものは、
不景気のニュース、不祥事のニュース、
何年も働いた会社をクビにされたサラリーマンの悲痛なドラマ、
安売りのチラシを何枚も持ったお母さんが登場するアニメなどです。
そんな幼少時代を過ごした人間に、将来への希望が持てるだろうか。
希望も未来もない将来を思い、何故生きているのだろうかと思うようになります。
心に柱など立つはずもない。
心に柱がないのだから、じゃあ何で心を支えるか、気合しかない。
そう、気合がないのではない、気合はすでに立っていることに使っている。
だから、つらいことがあっても耐えることができない。何のためにこんなひどい目に合わなければならないんだと思う。
最近の若者は上司に怒られたらすぐ辞めてしまう、というニュースはその辺りが原因だと思う。
何のために嫌な思いをしているのだろう、と思った瞬間に耐えられなくなってしまうのだ。
これを我慢すればいつか俺も・・・なんてとても思えない。そう思うには将来があまりにも不安すぎる。
だから、気合がないわけじゃない。
生きてるだけですごいんだ。