真剣になれないのは、単純に真剣になれないことだから

人生に真剣になれない。どんな局面でも真剣になれない。

太陽はいつか燃え尽きるのに、地球明日滅びるかもしれないのに、明日事故や災害が起きてどうなるかわからないのに、どうせ何をやっても無駄になるのに、何でみんな真剣に何かに取り組んでいるんだろう。

そんな風に思ってました。

考えてみました。無駄にならなければ真剣になれるのか。地球がずっと滅ぼないという保証があれば、太陽が燃え尽きないという保証があれば、永遠の命があったとしたら、人生に真剣になれるだろうか。

多分、それでも真剣になれないような気がしました。
無駄にならない保証なんであり得ないのですから。

真剣になるにはどうしたらいいのだろう。
ずっとずっと悩んでました。

気付いたら、
真剣になれないことに真剣に悩んでました。
だから、焦ることはないんだと思いました。

真剣になれることがあれば、真剣になれるんだとわかったからです。

真剣になれないなら、それは単純に自分が真剣になれないことだから、
そういう人間なんだと思うことにしたら、気が楽になりました。

うまくいかないことが普通

人生が思い通りにいかなくてイライラしたり、やきもきしたりしたときの気持ちの切り替え方。

うまくいくと思うから辛い。

人生、うまくいくことなんてない。思い通りになんてならない。

思い通りにいったらラッキーと思おう。
常に最悪のシナリオを思い浮かべ、そうならなかったときにホッとしましょう。

「死にたい」は本当の「死にたい」ではない

普段生活していて、何気なくつい口をついて「死にたい」と言ってしまう。

昔の嫌なことを急に思い出したり、あのときああすれば良かった、
こんなはずじゃなかった、あんな人生が良かったとか、色々考えてはつい死にたいと言ってしまう。

しかしそんなあるとき、胸がギューーっと痛くなることがありました。時間は短かったが頻発するようになりました。
ときには急にヒュッと息を吸い込んでそのまま呼吸が止まりそうになったりするようになりました。
結果的に自律神経失調症という診断でしたが、
それがわかるまでは原因がわからず、胸の痛みなどは恐怖でしかなかったです。

その痛みは「死」を意識させられました。このまま死ぬんじゃないかと思いました。
本当の「死」を間近にして初めて、死ぬのが本当に怖いと思いました。
死にたくないと心から思いました。

毎日あれだけ「死にたいと」と言っていたのに、いざ「死」が迫ると怖くてたまらない。

そこで初めて気付きました。日々の「死にたい」は本当の意味での死にたいではないのだと。
口をついて出る「死にたい」は、どうすることもできない現実や変えることができない過去と向き合うことができず、逃げることもできないどうしようもない辛さから解放されたいという意味なんだと思いました。

どうすれば辛さから解放されるかと考えたとき、死ぬことしか思いつかないから「死にたい」と言ってしまうのです。本当に死にたいわけじゃないんです。

過去に戻ってやり直せたらそうするし、急に宝くじが当たったら人間が変わると思います。
死にたいわけじゃない。
「死にたい」と言い続けていると本当に死が訪れるかもしれない。

だから、今度からは辛いときは「泣きたい」というようにします。
せめてもの現実逃避は泣くしかないと思ったからです。

道でまったく避けない人間

道を歩いていると、他人とすれ違う。
たいていはお互いが自分の歩いているコースを少しだけ右か左にずれて譲り合う。
まさに日本人のお互い様の精神。

しかし最近、避けない人が多い。コースを一歩も譲らず、すれ違う相手に当然のように道を譲らせる。
しかもこっちを一切見ないやつもいる。
譲ってもらってありがとうはあるわけないし、譲ってもらった認識も、多分無視をしているという認識もない。
まるでそこに人なんていない、完全な無関心。
どうしてそこまで平気でいられるのだろう。殴ろう刺そうと思えば簡単にできるのに。
多分普段から何も考えていないんだろうな。誰にも注意されずに育ってきたのだろう。
自分が楽しいかどうかしか考えられない子供なんだと思う。どこかで死ぬほどつらい目にあえばいいさ。

もう一つ道を譲らない人間。こっちに気づいているけどあえて避けないタイプ。歩き方や態度や顔で威圧して避けさせる。
そういうタイプは結局、自分に自信がないのだろう。
相手に道をあけさせることによって、自分の方が強いと確認する。
相手より自分が上だと思うことで自分の価値を認識している。
つまり、人に迷惑をかけることで、相手に自分を認識させ、結果自分はここに存在しているという認識を得ている。
逆に道を人に譲るということを、負けと思っているのだと思う。
そんなかわいそうな人には素直に道を譲ってあげよう。そして心の中で笑ってやろう。

あーイライラする。最近日本人と呼べる人がめっきり少なくなった。悲しい限りだ。

幼少時代に親や近所、友達から十分な愛情を得ることができなかったのかもしれない。
人間は相手を認めることができる生き物だから、たとえ他人だろうとお互いを認め合うことによって自分の存在を確かめることができるはずだ。

生きることは「権利」なのか、生きなければならない「義務」なのか

「生きる」ことは「権利」か、それとも「義務」か。

もし権利だとすれば、放棄することも自由。
もし義務だとしたら、死ぬまで続けなければならない。

生きる権利。
この世に生を受けたこと自体、それだけで尊い財産であり、誰であろうと他人の財産を奪うことを許さない。
奪うことは許されないけど、売ることも捨てることもできる。

生きなければならない義務。
この世に生まれてしまった以上、どんなに理不尽でもその役割をまっとうせねばならず、
寿命が尽きるまで生きなければならない。途中で放棄することは許されない。

どう考えれば生きるのが楽になるか。死ぬ理由が見つかるか。

権利か、義務か、どちらの考えを受け入れたときより気持ちが楽になるか。
どちらが正しいか。実はどちらでもない。
何故なら、本心はそんなことどうでも良く、結局生きるのがつらいから、つらさを少しでもやわらげるような、自分をホッとされられるような考えにすがろうとしているだけなのだから。
欲しいのは生きるための言い訳で、生きるのが楽になる方法で、とにかく苦しみから救われることが大事であって、権利か義務なんて本当はどっちでもいい。

そもそも権利だの義務だのは、人間が文明を持った後から考え出した概念に過ぎず、
権利や義務という概念が存在する前から人間は生まれて生きてそして死んできた。
今さら権利だから生きるとか、義務だから生きなければならないという風に思っても、何の解決にもならない。

後付けの概念で「生きる」理由を探してもダメ。
深く考えず「生まれたからとりあえず生きる」程度で良いのだと思う。
本当に欲しいものは「生きて良いよ」っていう許可だから、
「生きる」ための言い訳を探しても、ずっとつらいだけです。

地球上から生物が生きられなくなるのに生きるのはどうして

太陽はあと何億年で燃え尽きる?
地球はあと何億年で活動を停止しする?
その前に氷河期がきて人間は絶滅するかもしれない。
宇宙だって無くなるかもしれない。
最後はみんな無くなる。無になる。今やってることは最後の最後には全部無駄になる。

なのに何故、生きるのか。何故生き物は必死に生きようとするのか。
死んだら無になる。何も無かったことになる。
子孫を残しても、宇宙がなくなれば最終的には何も残らない。
何もしてこなかったことと同じ。

だったら子孫を残す意味もないし、生きる意味もない。
なんのために生きているのだろう。どうせ最後は無なのに。

そう考えるとどうしてもやる気が出ない。本気になれない。
どうせ何も残らないのに、意味なんてないのに。
今やっていることすべてが究極的には無意味で無目的なのに。

ずっとそう思ってきた。意味なんてない、最後は全部消えてなくなる。

でもそれは違うかもしれない。
最後に消えてなくなるというのはただの思い込みで、自分の知識の範囲内で考えようとしてるだけで、
死後の世界があるかもれない。1億年後に新しい太陽ができるかもしれない。
他の星に移住するかもしれない。
何も無くなるなんて誰が証明したのか。1秒先の未来も予測できないのだ。
意味なんて無いなんて、今はわからないのではないか。

だから、今やってることは無にならないかもしれない。

でも、やっぱり無になるかもしれない。
何か確信が欲しい。生きる意味、生きて良い許可、今やっていることが絶対無駄じゃないよという証拠が欲しい。
それがないと何もやる気が起こらない・・・

「生きる絶対的な目的」とは何か

生きる目的、生きる意味とは何か。
それが知りたくて色々なドラマや映画を見たり、小説やマンガを読む。
しかし、どんな映画を見ても、どんな本を読んでも、
絶対的な意味は教えてくれない。

ドラマやマンガが提示してくれるのは相対的な答えで、例えば、
誰かに出合うため、誰かを守るため、僕は僕でしかない、世界でたった一人の自分、と言ったものだ。
それは映画の数だけ、本の数だけ答えが存在する。

でもそれは全部相対的な答えで絶対的な答えではない。
人間が何故この世に生まれたのか、生まれた理由、生まれた意味、
それが知りたいのだ。

数学の式ではわからないものを求めるときにxという記号を使う。
xはわからないものを求めるために生み出された記号だから、
xそのものには生まれた絶対的な意味がある。xがうらやましい。
自分にも何かこの宇宙にの歴史に関わる大きな役割が与えられていればなぁなどと思うことがある。

しかし、そんな役割なんて無い。何故生きているのかすらわからない人間。

そんなみじめな自分をちょっとでも慰めるために、こう思うようにした。
生きる絶対的な意味は、人類の歴史上まだ誰もその答えを見つけていない。
だから必死に生にしがみついてその答えを見つけ出そうとしているんだ。

やる気が出ないのは心に柱がないからで、気合はそこで消費されている

やる気が出ない、と言うと、
気合いが足りない、と言われる。

間違いだと真っ向から否定はしないが、気合でなんとかできる人は、心に柱ができている人だと思う。

自分の思う「やる気がない」状態は、「生きる意味がわからない」「生きる許可が欲しい」「生きていいよって言われたい」状態で、何かをやる以前に、生きること自体に疑問を感じている。

意味もわからず生きている。それだけで苦痛なのだ。立っているだけで精一杯なのだ。
立っていることにすでに気合を使っているのだ。
だから何かするための気合はもう残っていない。

人によって持っている気合の総量が大きく変わるとは思えない。
最近の若いやつは気合いが無いとか言うやつがいるがそうではなく、
年配だろうが若者だろうが持っている気合の量は同じで、
使い方の配分が違うだけのように思う。

配分の仕方は育った時代や環境に大きく左右されると思う。
例えば団塊の世代と呼ばれる人たちは幼少の頃、何をやっても大成功、いわゆるイケイケドンドンの経済成長で盛り上がる大人や社会を見ているし、バブルを体験し分厚い給料袋をもらい、何もしなくても順調に出世し、車を買い、家を買ってと、成功体験を多く積んでいる。

そのような環境にいれば、心に柱が立ちます。希望や明るい未来が約束され、どんなにつらいことがあっても耐えることができる。
心にしっかり支えがあるから、どんな強風も気合で乗りきれるし、乗り越えたことがまた成功体験として刻まれることになる。

一方、そのあとの世代。就職氷河期〜ゆとりの世代と呼ばれる人たちが幼少の頃に見たものは、
不景気のニュース、不祥事のニュース、
何年も働いた会社をクビにされたサラリーマンの悲痛なドラマ、
安売りのチラシを何枚も持ったお母さんが登場するアニメなどです。
そんな幼少時代を過ごした人間に、将来への希望が持てるだろうか。
希望も未来もない将来を思い、何故生きているのだろうかと思うようになります。
心に柱など立つはずもない。
心に柱がないのだから、じゃあ何で心を支えるか、気合しかない。
そう、気合がないのではない、気合はすでに立っていることに使っている。

だから、つらいことがあっても耐えることができない。何のためにこんなひどい目に合わなければならないんだと思う。

最近の若者は上司に怒られたらすぐ辞めてしまう、というニュースはその辺りが原因だと思う。
何のために嫌な思いをしているのだろう、と思った瞬間に耐えられなくなってしまうのだ。
これを我慢すればいつか俺も・・・なんてとても思えない。そう思うには将来があまりにも不安すぎる。

だから、気合がないわけじゃない。
生きてるだけですごいんだ。