過去の行動を思い出して急に死にたいと思ったときの対処法

普段何かをしていてもしていなくても、急に昔にあった嫌なこと、ささいなことを思い出して、
特に自分がされたことではなく、自分がした行動を思い出して、
死にたいと思うことがよくあります。

誰にでもあることなのかもしれません。

それは潔癖な性格が汚い過去に耐えられないからだと思います。

一番良い対処法は過去を変えることなのだと思いますが、
残念なことに現在の科学ではそれはかないそうもありません。

二番目に良い対処法は忘れることなのですが、
嫌なこと程忘れられないものです。むしろ時が経てば経つほど悪い方向に美化されていき、
余計に苦しさを増すものなのではないでしょうか。

過去を変えるもダメ、忘れるもダメ、なら残る方法は「過去を受け入れる」しかないわけですが、
それが簡単にいけば苦労はしません。
では、どうやって受け止めれば良いのでしょう。

そもそも、何故過去を思い出して死にたくなるのでしょう。
思い出しただけで死にたいと感じるわけではありません。
嫌なことを思い出し、再体験し、恥ずかしいと感じ、そんな自分を誰にも知られたくない、
誰かに知られるくらいなら死んだ方がまし、だから死にたいと思うのです。

なので、この流れの中のどれか一つをブロックすれば、
死にたいという発想に至らないのではないかと考えています。

思い出すことを止められたら誰も苦労しません。
その後の恥ずかしいと感じるところで止めるか、
誰にも知られたくないと思うところで止めるかです。

では1つ目。
恥ずかしいと感じないようにすること。

過去の自分が恥ずかしいと感じたら、そこで意識して思考を一旦停め、
本当に恥ずかしいことだろうか、他にも恥ずかしいことしてるはずだし、
今なら笑い話にできるかどうか考えてみましょう。
人に話して笑い飛ばしているところを想像しましょう。
なんてことはないように感じることができるでしょう。

もしそれでもダメなら2つ目、誰にも知られたくないと思うところで止める作戦です。
ぶっちゃけ、人に知られても大丈夫でしょ、と発想を変えましょう。
潔癖な性格が自分の歴史に汚点があることを嫌がっているだけなので、
別に知られたところで笑い話にしかならないと知りましょう。

歴史上の有名人にだって忘れたい過去の一つ二つあるはずです。
でもそれを明らかにされたところで、笑い話にしかなりません。

世の中はあなたにそれほど興味がないのだ、と思うのも良いかもしれませんね。
変に自意識過剰になることはないのですから。

それよりも、過去の自分ばかり見ていないで、もっと将来のことに目を向けるべきなんでしょうね。
失敗を生かし、次は同じ失敗をしないように行動することを心がければ、
新たに嫌な思い出を生産することも減るでしょう。

暴力は悪ではない、使う人間一人一人を見るべきだ

最近、体罰の可否で揺れてますね。
一昔前も相撲でしごきだのかわいがりだので話題になりましたね。
そのたびに暴力はいけない、暴力=悪だといった流れになります。

原発=悪、であるのと似ていますね。原発の所為、暴力の所為にするのは単なる責任逃れです。
なにかの所為にして本質をはぐらかしたり、はぐらかされているだけです。

暴力がいけないわけではないのです。
暴力は絶対に反対、と言ったところで、この国には死刑制度があります。
罪を犯したものに死を与える。これは一種の暴力ですよね。
つまり、法律により認められた暴力もあるということです。
正当防衛も緊急避難も、自分や誰かの命を守るための暴力なら認められています。

例えば、10人の生徒がいて1人の生徒がナイフを持って暴れていて、
先生は殴って止めました。
これは先生が生徒を殴ったことになりますが、体罰にはなりませんよね。

では、どんな暴力がいけないのでしょうか。
それは相手を傷つけるだけの暴力です。誰も守らない、誰のためにもならない、ただ相手を傷つけるだけの暴力。
指導と称して暴力をふるうというのは建前で、暴力をふるう理由に指導と言ってるだけです。

暴力は引き継がれるのです。
指導者と教え子では立場が違うので、教え子は指導者を殴ることはできません。
そのため殴れた恨みだけが残り、やがて教え子が指導者という立場にたったとき、
今までの憂さ晴らしをするように暴力をふるうのです。

本来、指導者と教え子の立場に上下関係はなく、ただ役割が違うだけなのですから、
指導者だからと言って教え子を支配して良い道理にはなりません。
ただ、何度言っても言うことを聞かない生徒というのはいます。

しかし、それこそが指導者としての腕の見せ所なのではないでしょうか。
言うことを聞かないからと言って暴力に頼るのではなく、
何度も正面から向き合って、何度も話し合い、お互いに理解し合う事、
それこそが心ある人間としての行動なのではないでしょうか。

言うことを聞かないから暴力でわからせるなんて、動物の調教と同じじゃないですか。

「私は体罰によって成長しました」なんて、

「私の指導者は私を動物として育ててくれました」
「私の指導者はたいした人間ではありません」
「私は指導者として人間性を欠いた人間です」

と自ら吐露するようなものです。

暴力で育つ人間なんていません。暴力は誰かを守るためだけに使われるべきなのです。

生きる目的とは結果主義がもたらした副産物

自分は何のために生きているのか?誰もが考えたことがあると思います。
私はそれが見つからず、ずっと苦しんできました。
「苦しんできた」と過去形なのは、「今は見つかった」という意味ではありません。
考え方を変えることにしました。

今までは、
いつかは自分は死に、太陽は燃え尽き、地球は滅び、宇宙だって無くなるかもしれない。
究極的にはすべて無くなるのに、何故生きているのだろう。何のために生きているのだろう。
結局はすべて無意味なのではないか。

と、考えてきました。
しかし最近ひらめいて、発想を変えることにしました。

それは、
そもそも生きることに意味を求めてはいけないんじゃないか。ということです。
生きる目的ではなく、生きている過程そのものが大事なのではないでしょうか。

そもそも、目的を持つということは、何かを目指して行動するための準備です。
なりたい自分を描き、それに向かって努力するために、目標を設定します。
結果ありきで、目標が生まれるのです。

それは、資本主義の競争社会の中で生まれた結果主義が大きく関係しているのではないでしょうか。
競争に勝つために大切なのは実績、結果がすべて、過程なんて二の次。
それが悪いと言っているわけではありません。ビジネス上はそれでも良いと思います。
挙げたい実績、出したい結果があり、それに向けた目標が設定され、それに伴い様々な仕事が発生します。
つまり目的ありきで、行動が後から発生します。

では、生きることはどうでしょうか?目的ありきで生きているのでしょうか?
いいえ、目的なんていう言葉すら知らない状態で生まれてきます。
生きる目的があって生まれてくるわけではないのです。

しかし、その結果主義が日常生活まで根をおろし始めると、
普段の生活でさえ何か目的がないと何も行動できなくなってしまいます。
将来のために勉強する。未来のために努力する。
そしてなりたい自分が描けないとき、何のために生まれてきたのかつい考えてしまうのです。
繰り返しですが、何か目的があって生まれてきたわけではないのです。

生きる目的とは、結果主義が招いた固定概念に過ぎないのです。
目的なんて気にしない、どんな結果が出ようとも、その結果へと続く過程が大事。
生きる目的なんかいらない。
生きていること、生きていくこと、死ぬまでの過程、宇宙がなくなるまでの過程たる今この一瞬一瞬が最も重要なものなのではないでしょうか。

「生きること」に見返りを求めてはいけないのではないでしょうか。

戦争の被害はまだ続いていて、不景気がそれを露見させた

ここ数年、よく精神疾患やそれに似たものを目にします。
発達障害、うつ病、コミュ障、メンヘラ、いくら言っても言うことを聞かない部下。

私自身、やる気が出ないことが病気かもしれないと診療内科に行ったことがあります。

私は何か異常な雰囲気を感じてなりません。
なぜ最近になって急に増えてきたのでしょうか。
それとも、昔から存在はしていたが、今になって病気だと判明したのでしょうか。

それもあるかもしれまえせんが、私は戦争によって生み出されたのだと考えています。
広島、長崎に原爆を落とされ敗戦するまでの戦時中、
負ける雰囲気を感じながらもお国のためと大切な息子が兵隊に送り出し戦死させ、
あるいは戦地から命からがら生きて帰って来たら家族は焼け死んでいたり、
食べ物には常に不自由し、とにかく今の時代に生まれた私たちには到底想像もできないような悲惨な日常があったはずです。

そして戦争に敗れ、戦争から解放された人々は皆、
自分の子供たちには同じ思いをさせたくない、と思ったでしょう。
子供たちをとても大事に育てたことでしょう。当然のことだと思います。
しかし、大事に育てたつもりが、実は過保護に、実は自由奔放に、育ててしまったのではないでしょうか。そうして精神的に未成熟だったり、身勝手な人間が育った。

それが、いわゆる団塊の世代です。
そう、彼らは戦争の反動で「大事に」育てられた世代、戦争の被害者なのです。

さらに、彼らが働き盛りの頃は景気も大変良く、何をしても儲かっていました。
儲かっていれば多少の粗相にも会社は目をつぶったでしょう。
そうです、社会からも過保護に育てられてきたのです。

今でもいばってばかりで何もできない子供みたいな上役がいるのはそのためです。
彼らは戦争が生んだ未成熟な人間なのです。

そして、戦争の被害者たる未成熟な人間が育てた人間が、私たちです。
未成熟な人間が育てた人間なので、さらに未成熟です。
未成熟な家族、親戚、学校の先生に囲まれ、心の成長が著しく遅くなった世代なのです。

だから、20歳、30歳になってもまだ心は子供のまま未成熟。
それを心の病気と呼んでいるのではないでしょうか。
いわば、戦争の被害者によって生み出されたさらなる被害者というわけです。

心が未成熟なのだから責任能力が乏しいのは当たり前です。
景気が決して良いとは言えない現在、人件費削減により残される人員の一人一人の責任が重たくなるのは当然のことでしょう。
一世代前の新入社員と今の新入社員とでは責任の重さが既に比にならないほど違うのです。

そういった時代背景の中、責任能力が乏しければ働けないのは言うまでもありません。
だからここ最近、
心が未成熟な人々が浮き彫りにされているのではないでしょうか。

それを「それを最近の若い奴らは」などと一笑に付すなど言語道断。
不幸な世代をつくったのは当の本人たちなのですから。
しかし、彼らも戦争の被害者であり、今なお戦争の被害は続いていると言っても良いのではないでしょうか。

心の器の大きさは肉体の大きさではないのにね

電車で2人分でっぷりと座って必要以上に足を伸ばしたり広げたり、

狭い道ですれ違いざまにまったく避けなかったり、

心が小さいからせめて体だけは大きく見せようとでもしてるんですかね。
無駄な存在感を無駄にアピールしたいんですかね。
縄張りを主張する野生動物のように。

人間には心があり、心があるおかげで野生動物にはできない人間的な思いやりにあふれた行動ができます。

つまり、野生動物のような行動をする人間には心がない。

心は肉体の中にありますが、
心の入れ物である体が大きい=心が大きい、ということにはなりません。

体を大きく見せたって、心は大きく見えないのに。
早く野生動物を卒業して人間になってくれないかなぁ。

たまには人生をゲームだと思ったっていい

ゲーム脳ってやはり時代が生んだ馬鹿な言葉だと思う。

ゲームをやっていたら性格が歪むんだそうです。違います。
歪んだ性格の人間が歪んだ人間を育てたに過ぎないんです。
ただ、責任転嫁するためにゲームの所為にしたんですよね。

ゲーム感覚で罪を犯す犯罪者はゲームが無い時代からいたんですから。
ただ、「ゲーム」という言葉が後から生まれただけのことです。

だからゲーム自体は悪いことじゃないんです。
人生をゲームだと思っても良いんです。
人の命や財産をゲーム感覚で奪うってのは言語道断ですけど、
しかしゲームから学ぶことだってあります。

ボスを倒すために、
ただただ草原や砂漠や洞窟を歩き回ってレベル上げしましたよね?
お金を貯めて強い武器や防具を買いましたよね?

これって、目標に対して努力をすることと、どう違うと言うのでしょう?

ボスを倒すという目標のために、物語から離れ何の面白みもなくただただ苦痛で地道なレベル上げという努力をする。

そして時間をかけて手に入れた新しい武器や魔法でボスを倒したとき、ものすごい達成感があったと思います。

ゲームが悪いことだなんて大間違いです。クリアすることには意味があるんです。
たとえクリアしなくとも、最初のボスを倒す、最初のステージをゴールするなど、
ゲームをやったことがあるなら、誰もがそうやって努力が報われたときの喜びを感じているはずです。

もう一度そのときの感覚を思い出し、ボスを倒すためにレベル上げをしてみてはいかがでしょうか。
ボスはすぐ近くにひそんでいるかもしれません。

やる気を出すにはまずストレスをやっつけてから

やる気が出ない大きな理由、それは慢性的にたまったストレスではないでしょうか。

ある程度ストレスがあった方が集中できると言う方もいるかもしれません。
それはストレスとは呼ばずにプレッシャーと呼ぶことにします。
ある程度プレッシャーがあった方がやる気はでるかもしれませんが、
ストレスはゼロなのが一番良いでしょう。

さて、
慢性的にたまったストレスとは何でしょう。
先に結論を言ってしまうと、
「自分で掲げた目標を妥協したり、誰かとの約束を破ることに慣れてしまったこと」です。

私の場合。
小学生の頃、家でテレビゲーム(当時そう呼ばれていた)をして良いのは毎週土曜日に1時間だけでした。
そのくせ毎日勉強しろと言われ、
楽しくない勉強はずっとさせられ、楽しいゲームは週1時間だけ。低賃金強制労働かよ。
ゲームの進捗速度は当然遅く、友達とも話が合わない。

中学生になり、お年玉でゲームボーイカラーを購入した頃から、
隠れてゲームをすることを覚えました。

今までの鬱憤を晴らすようにゲームに浸りました。
しかし鬱憤は晴れず、親との約束を破った背徳感だけが募り、それが新たなストレスをなりました。

勉強したらゲームをする、という労働と対価のバランスをうまくマネジメントすれば良かったのですが、
そんなこと当時の私にできるはずはありません。
なぜなら週7で勉強という労働をして、週1時間のゲームという対価を得てきた自分にとって、
労働と対価は見合わないものだという固定概念が定着してからです。

むしろ労働なしに対価を得ることを覚えてしまったのです。今思えば背徳感というストレスが報いだったわけですが。

そんなわけで勉強は適当、ゲームに浸る、という構図が中学生という大事な時期にできてしまいました。

受験が近づいて勉強の必要性が出てきても、今まで週1しかできなかったゲームはやめられず、
ここまで勉強したらゲームをしようと自分の中で決めたところで、
最初の目標を捻じ曲げた妥協点で切り上げ、ゲームをしていました。

そんな感じで、最初に定めた目標に向かって取り組む中、やっぱりここまででいいや!と妥協して目標を達成したことにする生活に慣れていってしまいました。

しかし、その目標を妥協することにやはり背徳感があり、気付かないうちにストレスはどんどんどんどんたまっていきました。

皆さんはそのような経験はないでしょうか。
自分の掲げた目標や、誰かとの約束を破ることに慣れてしまい、その都度背徳感を味わってきたことはないでしょうか。

その背徳感は記憶に残り、ずっとストレスを脳に与え続けています。
ストレスで脳は疲れ、やる気が出ないのです。
例えば、全力疾走をして体が疲れているときに、走れないのは当たり前ですよね?

同じように脳はストレスを闘い続けて疲れているのです。そんな脳みそを働かせるなんて無理な話です。

ではどうすれば良いのでしょうか?
簡単です。
休めば良いのです。体だって休憩を取ればまた走れますから、脳だって同じです。

どう休めば良いか。脳を休める方法は睡眠をとること!
寝る前にリラックスをすることが大事。
今までの自分は生まれた時期が悪かっただけだ~と責任を放棄しましょう。
背徳感を捨てましょう。私は真面目に生きたかったのに、時代がそうさせてくれなかったのだと、時代の所為にして、責任を丸投げしましょう。
背徳感から解放されリラックスした状態のまま睡眠に入りましょう。

翌朝、すっきりします。
そしたら、すごく小さな目標を立て、すごく小さな対価を得ましょう。
歯を磨いたらテレビを見て良い。とかそんな感じで良いのです。
労働と対価のバランスを取り戻しましょう。

まとめると、
やる気を出すにはまず、たまったストレスをリラックスと睡眠によってリセットし、
労働と対価のバランスを取り戻すことから始めましょう。
何かを得るには何かをしなくてはならないということを認識しなくてはいけないのです。
何もせずに何かを得ようとすると、確実に何かを失う、ということも一緒に認識できるはずです。