暴力は悪ではない、使う人間一人一人を見るべきだ

最近、体罰の可否で揺れてますね。
一昔前も相撲でしごきだのかわいがりだので話題になりましたね。
そのたびに暴力はいけない、暴力=悪だといった流れになります。

原発=悪、であるのと似ていますね。原発の所為、暴力の所為にするのは単なる責任逃れです。
なにかの所為にして本質をはぐらかしたり、はぐらかされているだけです。

暴力がいけないわけではないのです。
暴力は絶対に反対、と言ったところで、この国には死刑制度があります。
罪を犯したものに死を与える。これは一種の暴力ですよね。
つまり、法律により認められた暴力もあるということです。
正当防衛も緊急避難も、自分や誰かの命を守るための暴力なら認められています。

例えば、10人の生徒がいて1人の生徒がナイフを持って暴れていて、
先生は殴って止めました。
これは先生が生徒を殴ったことになりますが、体罰にはなりませんよね。

では、どんな暴力がいけないのでしょうか。
それは相手を傷つけるだけの暴力です。誰も守らない、誰のためにもならない、ただ相手を傷つけるだけの暴力。
指導と称して暴力をふるうというのは建前で、暴力をふるう理由に指導と言ってるだけです。

暴力は引き継がれるのです。
指導者と教え子では立場が違うので、教え子は指導者を殴ることはできません。
そのため殴れた恨みだけが残り、やがて教え子が指導者という立場にたったとき、
今までの憂さ晴らしをするように暴力をふるうのです。

本来、指導者と教え子の立場に上下関係はなく、ただ役割が違うだけなのですから、
指導者だからと言って教え子を支配して良い道理にはなりません。
ただ、何度言っても言うことを聞かない生徒というのはいます。

しかし、それこそが指導者としての腕の見せ所なのではないでしょうか。
言うことを聞かないからと言って暴力に頼るのではなく、
何度も正面から向き合って、何度も話し合い、お互いに理解し合う事、
それこそが心ある人間としての行動なのではないでしょうか。

言うことを聞かないから暴力でわからせるなんて、動物の調教と同じじゃないですか。

「私は体罰によって成長しました」なんて、

「私の指導者は私を動物として育ててくれました」
「私の指導者はたいした人間ではありません」
「私は指導者として人間性を欠いた人間です」

と自ら吐露するようなものです。

暴力で育つ人間なんていません。暴力は誰かを守るためだけに使われるべきなのです。

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