ときには上を見なくてもいい

まわりを見て焦ることがある。
同世代の人の生活や収入、活躍などを見ると自分がみじめに思えてすごく辛い。

自分も頑張らなきゃとか、どうしてこんなんなっちゃったんだろうかとか、色々考えて余計辛くなる。

そんなときは周りを見てはいけない。上を見てはいけない。

贅沢なんかしなくていいじゃないか。ただ単に貧乏するだけでいいんだから。

気持ちが弱ってるときは頑張っちゃいけない。今の自分を認めてあげるのが大切だと気が付きました。

間違ってもしょうがない

間違いだらけの人生で、何でこんなになっちゃたのかなと、くよくよする毎日です。
そんなときにしみた言葉。

『正しい道を選ぶわけは一つきりだけどね、道を間違うわけはいろいろあるのさ』

(古龍著・辺城浪子)

辛い人生を送っているのは自分だけじゃない、間違っても仕方がないんだと思って少し安心しました。

真剣になれないのは、単純に真剣になれないことだから

人生に真剣になれない。どんな局面でも真剣になれない。

太陽はいつか燃え尽きるのに、地球明日滅びるかもしれないのに、明日事故や災害が起きてどうなるかわからないのに、どうせ何をやっても無駄になるのに、何でみんな真剣に何かに取り組んでいるんだろう。

そんな風に思ってました。

考えてみました。無駄にならなければ真剣になれるのか。地球がずっと滅ぼないという保証があれば、太陽が燃え尽きないという保証があれば、永遠の命があったとしたら、人生に真剣になれるだろうか。

多分、それでも真剣になれないような気がしました。
無駄にならない保証なんであり得ないのですから。

真剣になるにはどうしたらいいのだろう。
ずっとずっと悩んでました。

気付いたら、
真剣になれないことに真剣に悩んでました。
だから、焦ることはないんだと思いました。

真剣になれることがあれば、真剣になれるんだとわかったからです。

真剣になれないなら、それは単純に自分が真剣になれないことだから、
そういう人間なんだと思うことにしたら、気が楽になりました。

AC上司の対処法

自分はAC、いわゆるアダルトチルドレンかもしれないと思うことがありますが、
今回はそれを置いといて、ACが上司になったときの対処法。

先に言ってしまうと、毅然とした態度で黙って耐えるだけです。
しばらくすると、こっちのことが怖くなってからんで来なくなります。
こちらがモジモジしたりウジウジしたりするとつけこんでくるので、まっすぐ相手の目を見てハイハイ言っていれば話しかけて来なくなります。

自分の上司はどういうやつかというと、
新人や格下にさえ嫉妬する劣等感のかたまりです。
普通の人間は上を目指して頑張り、自分の価値を向上させようとしますが、うちの上司は下の人間をおとしめることで、相対的に自分の価値を上げ、自分には価値がある、自分は仕事ができると確認しています。

10年以上勤めていればそれなりに仕事ができるようになります。それなのに入ったばかりで毎日覚えることだらけ、気を使いっぱなしの新人にきつく当たり、俺は出来る、お前はできない、俺はできる、お前はできないと圧力をかけてきます。
そして、「うちは新人が長く続かないんだよねぇ」と楽しそうに語ります。本当にくずです。
そのセリフこそ人を育てる才能がことの証明です。無能の証明です。

そんな上司の相手をしていると本当に疲れます。自分は自律神経失調症を発症するまで追い込まれました。
新人は何もできません、通常ならできる気遣いもできません、当たり前のことが難しいですし、常に気を張りっぱなしの環境です。慣れないことをするのは疲れます。それが当たり前です。
もし入社まもなく何もできずに苦しんでいる方がいたらそれは当たり前だからしょうがないです。

10年も在籍していれば日々の業務は箸を使うように自然にできます。しかし新しい場所では通常の業務でさえ慣れない仕事なのです。人と比べてはいけません。1+1で苦労する時期に、なんで掛け算できないんだよ!とか言われてもハイハイ言って聞き流しましょう。
じゃないと心がもちませんので。うまく無視しましょう。

うまくいかないことが普通

人生が思い通りにいかなくてイライラしたり、やきもきしたりしたときの気持ちの切り替え方。

うまくいくと思うから辛い。

人生、うまくいくことなんてない。思い通りになんてならない。

思い通りにいったらラッキーと思おう。
常に最悪のシナリオを思い浮かべ、そうならなかったときにホッとしましょう。

「死にたい」は本当の「死にたい」ではない

普段生活していて、何気なくつい口をついて「死にたい」と言ってしまう。

昔の嫌なことを急に思い出したり、あのときああすれば良かった、
こんなはずじゃなかった、あんな人生が良かったとか、色々考えてはつい死にたいと言ってしまう。

しかしそんなあるとき、胸がギューーっと痛くなることがありました。時間は短かったが頻発するようになりました。
ときには急にヒュッと息を吸い込んでそのまま呼吸が止まりそうになったりするようになりました。
結果的に自律神経失調症という診断でしたが、
それがわかるまでは原因がわからず、胸の痛みなどは恐怖でしかなかったです。

その痛みは「死」を意識させられました。このまま死ぬんじゃないかと思いました。
本当の「死」を間近にして初めて、死ぬのが本当に怖いと思いました。
死にたくないと心から思いました。

毎日あれだけ「死にたいと」と言っていたのに、いざ「死」が迫ると怖くてたまらない。

そこで初めて気付きました。日々の「死にたい」は本当の意味での死にたいではないのだと。
口をついて出る「死にたい」は、どうすることもできない現実や変えることができない過去と向き合うことができず、逃げることもできないどうしようもない辛さから解放されたいという意味なんだと思いました。

どうすれば辛さから解放されるかと考えたとき、死ぬことしか思いつかないから「死にたい」と言ってしまうのです。本当に死にたいわけじゃないんです。

過去に戻ってやり直せたらそうするし、急に宝くじが当たったら人間が変わると思います。
死にたいわけじゃない。
「死にたい」と言い続けていると本当に死が訪れるかもしれない。

だから、今度からは辛いときは「泣きたい」というようにします。
せめてもの現実逃避は泣くしかないと思ったからです。

嫌なこと思い出して辛くなったら

昔の嫌なことを思い出して死にたいと思う程辛くなったとき、
思い出すと良い言葉。

『人間 後悔してる時が一番幸せだからさ』

(田村由美著 7SEEDS 17巻より)

『最高の酒の肴(さかな)だろうが!』

(アニメ銀魂より、昔の辛い思い出に向き合えないキャラへの一言)

生きる理由なんていらない

人はいつか死ぬ。地球も止まる。太陽も燃え尽きる。宇宙もきっとなくなるだろう。

どうせ最後は「無」になるのに、どうして生きるのだろう。
今やってることすべて最後の最後には無駄になるのに、どうして生きるのだろう。
生きる目的はなんだろう。

それがわからなくてずっとやる気が出ない時期がありました。
どうせ無駄になるんだからやってもしょうがないな、と思うとすべてにやる気が出なくなる。
このときのやる気の無さは、普通の人が「今日やる気ないな〜」程度の無さとは比べ物にならない。
かと言って死ぬ勇気もなく、どうしようもない。

死ぬにしてもちゃんと死ぬ理由が欲しいのだ。

でもそれは間違いだった。生きる理由も死ぬ理由も必要なかった。
理由ではなく自信の問題だった。
自信がないから、自分は本当に生きても良いのだろうかと不安になる。本当のところは生きる理由が知りたいわけじゃない、「生きて良いよ」という許可欲しい。
自信がないから、本当に自分は死んでも良いんだろうかと思う。誰かに「死ね」と言って欲しい。
でもそれはおかしくないか?
誰かに生きて良いよと言われたからなんだ、死ねと言われたからなんだ、他人の言葉に何の意味があるのだろうか。人にどうこう言われて生きてるわけじゃない。
結局のところ、生きる許可は自分が自分に出すしかないのだ。

寝る前に目を閉じて自分に聞いてみよう、「自分は生きて良いですか?」と。
そして答えよう
「生きて良いよ」と。

嫌なことされたら貸し、嫌なことしたら借り

イラッとしたときの心の整理法。

例えば歩きタバコ。臭い。ものすごく不愉快で、後ろからぶん殴ってやろうかと思う。
気が小さいからそんなことできないけど。
だけどやっぱり理不尽で、ぶつけようの無い怒りに駆られる。

そんなときは心の中で思う。「これは貸しだからな、後で利子付けて返せよ」と。

具体的な金額を決めても良いかもしれない。電車でうるさいの我慢してあげたら300円の貸し。
歩きタバコ我慢してあげたら1,000円の貸し。

逆に人に不愉快な思いをさせてしまったら「この借りは必ず返します、今回はご勘弁ください」と思うようにしよう。

そうして作った貸しと借りの差し引きしたものが今貯まっている徳。

借りを作りすぎて返済しきれなくなると人生が破綻する。誰も助けてくれなくなる。
歩きタバコはすれ違う人すべてに貸しを作っていくので、遅かれ早かれ破綻する。
そういう風に考えるようにして、なるべく徳が貯まるように心がけようと思った。

バカに関わらないこと

外に出ればイライラすることがいっぱいある。

歩きたばこ。なんで人が吐いた煙を吸わなきゃいけないのか。臭いし煙い。自分だけいい気持ちしてこっちは不愉快極まりない。
犬のフン。誰が靴代を弁償してくれるのか。
雨の日のすれ違い。なんでそっちは傘避けないんだよ。
歩きスマホ。何でこっちだけが道を譲らなきゃいけないのか。
チャリスマホ。輪をかけて危ない。視界と片手をふさいでフラフラする。
スマホ運転。もはや人殺し。注視してなきゃ捕まらないとか自分勝手なこと言ってるクズもいる。実際に人が死んでるんだぞ。
あおってくる車。事故ったらどうすんんだ。どうせ責任取る勇気もねぇくせに。
間に合わないくせに黄色でつっこむ信号無視。自分の都合優先。我慢ができない。
駅ですぐ降りない客。お前のせいで乗る人も遅れるから結果電車が遅れる。大迷惑。そういうやつに限ってチンタラ降りる。
あーイライラする。
気がきかない。周りが見えてない。まるで子供だ。

こういう人たちに出会ったときの対処法は一つだけ、「関わらないこと」

これがとても難しい。まるで理不尽な暴力を受けているようで、ぶつけようの無い怒りに爆発寸前になる。
しかし相手はそんなことにまったく気づかない、悪いとも思っていない。当然だ、意識すらないのだから。
そこでそんな人たちに注意したりしたらどうなるだろう。
人に迷惑をかけていると思っていないのだから、注意されたら怒る。こっちから見れば逆ギレだが、そうは思っていない。
何故怒られたのかわからない。そしてこっちを恨む。くだらない逆恨みを買うことになる。自分だけでなく、自分の周りの人に危害が及ぶかもしれない。

だからあきらめることが肝心だ。本当の子供ならまだしも、大人で子供ならもう手遅れだ。
怒りがこみ上げるということは、相手に何かを期待しているということの裏返しでもある。
だから何も期待してはいけない。運が悪かったとあきらめ、その場は我慢してやり過ごすのが最善なのだ。

どうせ色々な人に知らず知らずに迷惑をかけまくっている人間なんて、ろくな人生を歩めない。
ここぞというときに他人の助けを得られないから、必ずどこかで大きなハズレを引くことになる。
その瞬間を目撃できないことが非常に残念だが、あきらめるしかない。

我慢なんてできない、理不尽には耐えられないと思うかもしれないが、そんなことはない。日頃の習慣はあらゆるところで言動ににじみ出る。
苦労を重ねた人にはそれが見える。いつかどこかで我慢が実を結ぶことになる。
我慢したその場で結果が出るわけではないので、そこがとてももどかしいが、いつか人間としての豊かさに大きな差が出るのだ。

だからイライラに出会ってもぐっと耐え、関わらないようにしよう。自分もそうします。