道具の所為にするな

最近、なんでもかんでも道具の所為にしている気がする。

例えば原発反対、脱原発。
例えば殺人事件が起きたとして、その凶器が包丁だったとしても、
包丁をこの世から無くそう、とはならない。
包丁はときに人を殺すこともできるし、おいしい料理をつくることができる。
要は使いようなのだ。

凶器に包丁が使われたのなら、包丁を使った人を罰すればいい。
原発が凶器として使われたのなら、使い方を誤った人間を罰すればいい。
原発をなくしても犯人はそのまま野放し状態である。

野放しにされた殺人犯は別の道具で人を殺めるかもしれません。
原発をなくした犯人は、別の道具で同じ過ちを犯すんじゃないでしょうか。
こんなニュースもありましたし。
川崎の発電所でガス漏れ 東京電力、けが人なし(Infoseek楽天ニュース)
原発の運営失敗者にしっかり責任をとって欲しいものです。

それから、
交通事故が多いからって車の安全性をあげるだけではダメです。
それでは事故を起こしたときに車の所為にしてしまいます。
車の開発者の血の努力は有難く享受させていただくと同時に、
事故を起こしたときは車の所為にせずしっかり責任を取るのは当たり前ですよね。

あと、インターネット、携帯電話、パソコン、銃。便利なものは必ず悪い方向にも便利なんです。
何か問題が起きたとき、そういった便利な道具たちが責任を負わされるのは腹が立ちますね。

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