生きる目的とは結果主義がもたらした副産物

自分は何のために生きているのか?誰もが考えたことがあると思います。
私はそれが見つからず、ずっと苦しんできました。
「苦しんできた」と過去形なのは、「今は見つかった」という意味ではありません。
考え方を変えることにしました。

今までは、
いつかは自分は死に、太陽は燃え尽き、地球は滅び、宇宙だって無くなるかもしれない。
究極的にはすべて無くなるのに、何故生きているのだろう。何のために生きているのだろう。
結局はすべて無意味なのではないか。

と、考えてきました。
しかし最近ひらめいて、発想を変えることにしました。

それは、
そもそも生きることに意味を求めてはいけないんじゃないか。ということです。
生きる目的ではなく、生きている過程そのものが大事なのではないでしょうか。

そもそも、目的を持つということは、何かを目指して行動するための準備です。
なりたい自分を描き、それに向かって努力するために、目標を設定します。
結果ありきで、目標が生まれるのです。

それは、資本主義の競争社会の中で生まれた結果主義が大きく関係しているのではないでしょうか。
競争に勝つために大切なのは実績、結果がすべて、過程なんて二の次。
それが悪いと言っているわけではありません。ビジネス上はそれでも良いと思います。
挙げたい実績、出したい結果があり、それに向けた目標が設定され、それに伴い様々な仕事が発生します。
つまり目的ありきで、行動が後から発生します。

では、生きることはどうでしょうか?目的ありきで生きているのでしょうか?
いいえ、目的なんていう言葉すら知らない状態で生まれてきます。
生きる目的があって生まれてくるわけではないのです。

しかし、その結果主義が日常生活まで根をおろし始めると、
普段の生活でさえ何か目的がないと何も行動できなくなってしまいます。
将来のために勉強する。未来のために努力する。
そしてなりたい自分が描けないとき、何のために生まれてきたのかつい考えてしまうのです。
繰り返しですが、何か目的があって生まれてきたわけではないのです。

生きる目的とは、結果主義が招いた固定概念に過ぎないのです。
目的なんて気にしない、どんな結果が出ようとも、その結果へと続く過程が大事。
生きる目的なんかいらない。
生きていること、生きていくこと、死ぬまでの過程、宇宙がなくなるまでの過程たる今この一瞬一瞬が最も重要なものなのではないでしょうか。

「生きること」に見返りを求めてはいけないのではないでしょうか。

戦争の被害はまだ続いていて、不景気がそれを露見させた

ここ数年、よく精神疾患やそれに似たものを目にします。
発達障害、うつ病、コミュ障、メンヘラ、いくら言っても言うことを聞かない部下。

私自身、やる気が出ないことが病気かもしれないと診療内科に行ったことがあります。

私は何か異常な雰囲気を感じてなりません。
なぜ最近になって急に増えてきたのでしょうか。
それとも、昔から存在はしていたが、今になって病気だと判明したのでしょうか。

それもあるかもしれまえせんが、私は戦争によって生み出されたのだと考えています。
広島、長崎に原爆を落とされ敗戦するまでの戦時中、
負ける雰囲気を感じながらもお国のためと大切な息子が兵隊に送り出し戦死させ、
あるいは戦地から命からがら生きて帰って来たら家族は焼け死んでいたり、
食べ物には常に不自由し、とにかく今の時代に生まれた私たちには到底想像もできないような悲惨な日常があったはずです。

そして戦争に敗れ、戦争から解放された人々は皆、
自分の子供たちには同じ思いをさせたくない、と思ったでしょう。
子供たちをとても大事に育てたことでしょう。当然のことだと思います。
しかし、大事に育てたつもりが、実は過保護に、実は自由奔放に、育ててしまったのではないでしょうか。そうして精神的に未成熟だったり、身勝手な人間が育った。

それが、いわゆる団塊の世代です。
そう、彼らは戦争の反動で「大事に」育てられた世代、戦争の被害者なのです。

さらに、彼らが働き盛りの頃は景気も大変良く、何をしても儲かっていました。
儲かっていれば多少の粗相にも会社は目をつぶったでしょう。
そうです、社会からも過保護に育てられてきたのです。

今でもいばってばかりで何もできない子供みたいな上役がいるのはそのためです。
彼らは戦争が生んだ未成熟な人間なのです。

そして、戦争の被害者たる未成熟な人間が育てた人間が、私たちです。
未成熟な人間が育てた人間なので、さらに未成熟です。
未成熟な家族、親戚、学校の先生に囲まれ、心の成長が著しく遅くなった世代なのです。

だから、20歳、30歳になってもまだ心は子供のまま未成熟。
それを心の病気と呼んでいるのではないでしょうか。
いわば、戦争の被害者によって生み出されたさらなる被害者というわけです。

心が未成熟なのだから責任能力が乏しいのは当たり前です。
景気が決して良いとは言えない現在、人件費削減により残される人員の一人一人の責任が重たくなるのは当然のことでしょう。
一世代前の新入社員と今の新入社員とでは責任の重さが既に比にならないほど違うのです。

そういった時代背景の中、責任能力が乏しければ働けないのは言うまでもありません。
だからここ最近、
心が未成熟な人々が浮き彫りにされているのではないでしょうか。

それを「それを最近の若い奴らは」などと一笑に付すなど言語道断。
不幸な世代をつくったのは当の本人たちなのですから。
しかし、彼らも戦争の被害者であり、今なお戦争の被害は続いていると言っても良いのではないでしょうか。

心の器の大きさは肉体の大きさではないのにね

電車で2人分でっぷりと座って必要以上に足を伸ばしたり広げたり、

狭い道ですれ違いざまにまったく避けなかったり、

心が小さいからせめて体だけは大きく見せようとでもしてるんですかね。
無駄な存在感を無駄にアピールしたいんですかね。
縄張りを主張する野生動物のように。

人間には心があり、心があるおかげで野生動物にはできない人間的な思いやりにあふれた行動ができます。

つまり、野生動物のような行動をする人間には心がない。

心は肉体の中にありますが、
心の入れ物である体が大きい=心が大きい、ということにはなりません。

体を大きく見せたって、心は大きく見えないのに。
早く野生動物を卒業して人間になってくれないかなぁ。

たまには人生をゲームだと思ったっていい

ゲーム脳ってやはり時代が生んだ馬鹿な言葉だと思う。

ゲームをやっていたら性格が歪むんだそうです。違います。
歪んだ性格の人間が歪んだ人間を育てたに過ぎないんです。
ただ、責任転嫁するためにゲームの所為にしたんですよね。

ゲーム感覚で罪を犯す犯罪者はゲームが無い時代からいたんですから。
ただ、「ゲーム」という言葉が後から生まれただけのことです。

だからゲーム自体は悪いことじゃないんです。
人生をゲームだと思っても良いんです。
人の命や財産をゲーム感覚で奪うってのは言語道断ですけど、
しかしゲームから学ぶことだってあります。

ボスを倒すために、
ただただ草原や砂漠や洞窟を歩き回ってレベル上げしましたよね?
お金を貯めて強い武器や防具を買いましたよね?

これって、目標に対して努力をすることと、どう違うと言うのでしょう?

ボスを倒すという目標のために、物語から離れ何の面白みもなくただただ苦痛で地道なレベル上げという努力をする。

そして時間をかけて手に入れた新しい武器や魔法でボスを倒したとき、ものすごい達成感があったと思います。

ゲームが悪いことだなんて大間違いです。クリアすることには意味があるんです。
たとえクリアしなくとも、最初のボスを倒す、最初のステージをゴールするなど、
ゲームをやったことがあるなら、誰もがそうやって努力が報われたときの喜びを感じているはずです。

もう一度そのときの感覚を思い出し、ボスを倒すためにレベル上げをしてみてはいかがでしょうか。
ボスはすぐ近くにひそんでいるかもしれません。

やる気を出すにはまずストレスをやっつけてから

やる気が出ない大きな理由、それは慢性的にたまったストレスではないでしょうか。

ある程度ストレスがあった方が集中できると言う方もいるかもしれません。
それはストレスとは呼ばずにプレッシャーと呼ぶことにします。
ある程度プレッシャーがあった方がやる気はでるかもしれませんが、
ストレスはゼロなのが一番良いでしょう。

さて、
慢性的にたまったストレスとは何でしょう。
先に結論を言ってしまうと、
「自分で掲げた目標を妥協したり、誰かとの約束を破ることに慣れてしまったこと」です。

私の場合。
小学生の頃、家でテレビゲーム(当時そう呼ばれていた)をして良いのは毎週土曜日に1時間だけでした。
そのくせ毎日勉強しろと言われ、
楽しくない勉強はずっとさせられ、楽しいゲームは週1時間だけ。低賃金強制労働かよ。
ゲームの進捗速度は当然遅く、友達とも話が合わない。

中学生になり、お年玉でゲームボーイカラーを購入した頃から、
隠れてゲームをすることを覚えました。

今までの鬱憤を晴らすようにゲームに浸りました。
しかし鬱憤は晴れず、親との約束を破った背徳感だけが募り、それが新たなストレスをなりました。

勉強したらゲームをする、という労働と対価のバランスをうまくマネジメントすれば良かったのですが、
そんなこと当時の私にできるはずはありません。
なぜなら週7で勉強という労働をして、週1時間のゲームという対価を得てきた自分にとって、
労働と対価は見合わないものだという固定概念が定着してからです。

むしろ労働なしに対価を得ることを覚えてしまったのです。今思えば背徳感というストレスが報いだったわけですが。

そんなわけで勉強は適当、ゲームに浸る、という構図が中学生という大事な時期にできてしまいました。

受験が近づいて勉強の必要性が出てきても、今まで週1しかできなかったゲームはやめられず、
ここまで勉強したらゲームをしようと自分の中で決めたところで、
最初の目標を捻じ曲げた妥協点で切り上げ、ゲームをしていました。

そんな感じで、最初に定めた目標に向かって取り組む中、やっぱりここまででいいや!と妥協して目標を達成したことにする生活に慣れていってしまいました。

しかし、その目標を妥協することにやはり背徳感があり、気付かないうちにストレスはどんどんどんどんたまっていきました。

皆さんはそのような経験はないでしょうか。
自分の掲げた目標や、誰かとの約束を破ることに慣れてしまい、その都度背徳感を味わってきたことはないでしょうか。

その背徳感は記憶に残り、ずっとストレスを脳に与え続けています。
ストレスで脳は疲れ、やる気が出ないのです。
例えば、全力疾走をして体が疲れているときに、走れないのは当たり前ですよね?

同じように脳はストレスを闘い続けて疲れているのです。そんな脳みそを働かせるなんて無理な話です。

ではどうすれば良いのでしょうか?
簡単です。
休めば良いのです。体だって休憩を取ればまた走れますから、脳だって同じです。

どう休めば良いか。脳を休める方法は睡眠をとること!
寝る前にリラックスをすることが大事。
今までの自分は生まれた時期が悪かっただけだ~と責任を放棄しましょう。
背徳感を捨てましょう。私は真面目に生きたかったのに、時代がそうさせてくれなかったのだと、時代の所為にして、責任を丸投げしましょう。
背徳感から解放されリラックスした状態のまま睡眠に入りましょう。

翌朝、すっきりします。
そしたら、すごく小さな目標を立て、すごく小さな対価を得ましょう。
歯を磨いたらテレビを見て良い。とかそんな感じで良いのです。
労働と対価のバランスを取り戻しましょう。

まとめると、
やる気を出すにはまず、たまったストレスをリラックスと睡眠によってリセットし、
労働と対価のバランスを取り戻すことから始めましょう。
何かを得るには何かをしなくてはならないということを認識しなくてはいけないのです。
何もせずに何かを得ようとすると、確実に何かを失う、ということも一緒に認識できるはずです。

人間は他人の悪意に敏感で、なんとなくむかついたりするのはそのため

誰にでも、何気ない他人の一言でイライラしたりむかつくことがあります。
ときには、なぜそのような負の感情が沸き起こるのか自分でも理解できないこともあります。

それは頭では理解していなくても、もっと根底にある深層心理や本能といった部分で
敏感に相手から発せられた悪意を感じ取っているからではないでしょうか。
正確には悪意を感じ取るのではなく、自尊心を傷つけられたと感じている。

例えば、
家族から出かける間際に言われる「事故を起こさないように気をつけて~」
という言葉。いらっとする方もいらっしゃるのでは?

なぜでしょう。
この場合、車の運転をするのは自分、事故を起こすかもしれない人物も自分、
そして車の中は安全にできているので仮に事故を起こしたときに死ぬかもしれないのは自分ではなく他人。

つまり、自分の心配をしてくれているのではなく、他人を死なせてしまう心配をしているのです。
もっと言うとその先の賠償金や世間体などを気にしている。
家族は、私の心配ではなく結局本人の心配をしているのです。

もし私の心配をしてくれているのなら、「事故を起こさないように」なんて言い方はしないはずです。事故にあわないように、とか単に気をつけて、でいいじゃないですか。
あえて失礼な言い方をしなくていいわけです。

ムッする瞬間にそこまで考えているわけではありません。
聞いた瞬間に本能が悪意を感じ取り、
私のことを心配しているフリをして私のことを信用していない、
と自尊心が傷つけられ負の感情が浮かんでくるのではないでしょうか。

イライラする自分にイライラする必要もまったくありません。
イライラしたらそのイライラを信じ、何故イライラするのかを冷静に考えて自分を観察してみると新しい発見があるかもしれません。

働かない子、みじめな親

自分の子供と同じ年の子が結婚したり、出世したり、子供を生んだり、テレビで活躍している。
かたや自分の子供は働きもせず毎日引きこもってインターネットをしている。
近所の人はどう思っているのだろう。
そんな風に思っている人へ

子供の所為にしていませんか?
近所の人の目が気になるのというのは、本当に子供の心配と言えますか?
自分自身が近所の人にどう思われているのか気にしていませんか?
いつまでも働かない子を家で飼っているダメ親だと思われているんじゃないだろうか、
なんて考えていませんか?
自分がみじめに思えてなりませんか?

例えば、
銀行にお金を預ければ利息がもらえる
銀行からお金を借りれば利子を払う。

例えば、
人を呪わば穴二つ。
人を呪おうと思ったら、自分の分の墓も用意しておけという有難い言葉。

では、
愛情をそそがれて育った子供はどうなるでしょう?
将来大活躍。幸せが帰って来るでしょう。

では、
子供を殴ったり、ぶったり、理不尽な要求(言うこと聞かないとメシ抜きだ!)をしたりして、人格を否定された経験を持つ子供はどうなるでしょう?

愛された経験の無い子供は自分に自信が持てなくて、卑屈になったり、目立たないように目立たないように行動します。
当然幸せになれません。そして社会でも役に立てません。

子供を殴ると言うことは、呪うということと同じ意味です。
つまり、働かずに引きこもり、近所の人から影でささやかれ、
みじめな思いをしているならば、それはつけを払わされているに過ぎません。

その責任を働かない子供に押し付けようなんておこがましいにもほどがあります。
本気で子供の幸せを願うなら、まずは子供に土下座して謝りなさい。
殴ってすいませんでしたと、本気で謝れ。

それができないのなら、まだ自分自身の方がカワイイと思っているってことですよ。

やる気が出ないのは短期的な結果を求めているから

やる気がでない、目の前にある楽しいことをしてしまう。好きなことにしか集中できない。
本能のままに行動してしまう。

本能は人間が社会生活を営んでいることを考慮しません。
そのため短期的、短絡的で計画性がまるでなく、たとえ計画をたてても即挫折し、
今が楽しければそれで良いという発想にすり替わってしまいます。
そして後に残った後悔と言う残念な結果だけは理性に持たせ、本能はまた楽を求め始めます。

理性は長期的にものを考えることができるし、社会で生きていく上での計画をたてることもできる。
将来の不安材料もわかっているので、将来報われるのなら今苦労しても良いと考えることができます。

しかし、本能は強い。
本能は理性をやりこめる方法を本能的に知っています。
「どうせ報われないんだからやっても意味無いんだよ」と理性に語りかけるだけでいい。

本能は結果主義なので、結果が良ければすべて良い。
死ななかった、という結果があればなんでも良いのです。だから楽しいことだけ、楽なことだけやっていれば良いと理性に語りかけます。
苦労して報われる前に死んでしまうことを、本能は怖れているのかもしれません。

理性は何主義だろう。理性は過程を大事にするのではないでしょうか。
例えば、大きな買い物をするために一生懸命働いたとき、目的物よりも頑張ったことが大事。
資格取得における勉強。資格ではなく、その過程である勉強が大事。
できあがった絵ではなく、描く過程が大事。
結果に向かう過程が大事。

だから報われなくてもやる。報われるというのは、結果として現れるという意味なので、
結果が現れなくても、つまり報われなくてもその過程を経験したことの方が大事なのではないでしょうか。
だから本能から見れば報われなくても、理性的には着手した時点で既に報われているのです。
やっても意味ないなんて思わないことが本能に克方法なのではないでしょうか。

結果がどうなるかなんてわからないし、どうでもいい。
どんなささいなことでも良い、何をしたか、が大事。
どうせ報われないなんて思わなくていい、もう報われているのだから。
因果応報とはそういうことだと思います。

尊厳死と自殺の違い

自殺してはいけないよ、と言うのは正確ではないと思います。

自殺とは死にたい人が死ぬわけではなく、何かに追い詰められその結果として死を選ぶことです。
だから、自殺を「させては」いけないよ、というのが正確な注意ではないでしょうか。
これは死を選ぼうとしている人に言う言葉ではありません。
誰かを不当に追い詰めている人間に言う言葉です。

前々から思っているのですが、自殺は卑劣な殺人なのではないでしょうか。
例えばAがBを銃で撃ち殺した場合、Aは殺人犯、Bは被害者、銃は凶器です。
しかし、AがBを自殺に追い込んだ場合、Bは自殺、で終了です。
おかしい。

この場合、Aは殺人犯、Bは被害者で、凶器はBではないでしょうか。
Aは自分の手を汚さずにBを殺した。
凶器は他ならぬB本人。あまりにも卑劣です。
自殺者が3万人を超えたということは、少なくとも3万人の殺人犯が野放しにされているということです。
自殺する人を減らそうなんて、考え方がそもそもが間違っていて、
自殺へと追い込む状況を作らないようにすること、それが急務だと思います。

自殺に対し、尊厳死という言葉があります。
尊厳死は、病気等で近い将来に死が待っており、その病状等の苦痛から逃れるために死を選ぶことです。
尊厳死は認めるべきだと考えています。
病気の激痛に苦しみ、薬の副作用に苦しみ、歩くことはおろか本を読むこともできず、
しかしそれらの苦痛を耐えたとして、待つのは死です。
耐え抜くことでまた元気になれるのならば人は苦しみと闘うことができます。
耐え抜いた=死、を意味する状態にあるのであれば、では何のために苦しみと闘うのでしょうか。
もし私が不治の病にかかりその様な状態になったとしたら耐えられません。
看病する家族にも迷惑をかけるでしょう。友人も心配するでしょう。憐れむかもしれません。
そんなときは潔く死を選びたいです。
尊いのは命だけではないのですから。

道具の所為にするな

最近、なんでもかんでも道具の所為にしている気がする。

例えば原発反対、脱原発。
例えば殺人事件が起きたとして、その凶器が包丁だったとしても、
包丁をこの世から無くそう、とはならない。
包丁はときに人を殺すこともできるし、おいしい料理をつくることができる。
要は使いようなのだ。

凶器に包丁が使われたのなら、包丁を使った人を罰すればいい。
原発が凶器として使われたのなら、使い方を誤った人間を罰すればいい。
原発をなくしても犯人はそのまま野放し状態である。

野放しにされた殺人犯は別の道具で人を殺めるかもしれません。
原発をなくした犯人は、別の道具で同じ過ちを犯すんじゃないでしょうか。
こんなニュースもありましたし。
川崎の発電所でガス漏れ 東京電力、けが人なし(Infoseek楽天ニュース)
原発の運営失敗者にしっかり責任をとって欲しいものです。

それから、
交通事故が多いからって車の安全性をあげるだけではダメです。
それでは事故を起こしたときに車の所為にしてしまいます。
車の開発者の血の努力は有難く享受させていただくと同時に、
事故を起こしたときは車の所為にせずしっかり責任を取るのは当たり前ですよね。

あと、インターネット、携帯電話、パソコン、銃。便利なものは必ず悪い方向にも便利なんです。
何か問題が起きたとき、そういった便利な道具たちが責任を負わされるのは腹が立ちますね。